滝下橋緑道付近
上野田橋
小田急線高架脇の橋です。写真左の小田急線高架をくぐった所に喜多見不動堂があります。
喜多見不動堂
池のそばに、石橋供養塔があります。
文化八年(1811年)に建てられた石橋供養塔には次のように刻まれています。
東□子みち 南のぼりと道 北高井戸道
東方向お茶屋坂下に向かう道が二子道、南方向上野田橋を渡って慶岸寺のある二の橋交差点で旧品川道でもある、旧大
山道(登戸道)に出る道がのぼりと道、北方向不動坂を上って成城の町を抜け成城〜仙川のバス通りを通ってキユーピー工
場から甲州街道を入る滝坂道に抜ける道が高井戸道と言う事のようです。古くからある道なんですね。
不動坂
喜多見不動堂の前の坂。喜多見から成城に抜ける坂道です。
若葉町2丁目から三船プロダクション富士見橋に抜ける通りの至誠会第二病院横を通る道と成城八丁目交差点の間にある
四辻の庚申塔
庚申塔(入間町一丁目)
文化九年(1812年)に建てられたもので次のように彫られています。
東江戸道 西いづみ村ぢぞうみち 南ふたご□ 北井のかしら道
四谷辺りから泉龍寺の子育地蔵に参詣するためやって来た人達が、甲州街道を下り高井戸から祖師谷を経てこの辻を曲が
り、七曲りを下り百万遍供養塔の道しるべを見ながら、泉龍寺に向かったのでしょう。
西いづみ村ぢぞうみちは中央電通学園(NTT研修センター)の敷地に突き当たり道が無くなってしまいます。敷地内を通り百
万遍供養塔に繋がる道があったと言います。南ふたご□が不動坂に来る道です。
中之橋
世田谷通りにある橋。
中之橋を成城側に渡った左手に旧道と思われる道が残っています。お茶屋坂を下った所がこの道です。
道の左崖線には成城三丁目緑地があり、道の右には崖線の湧水を利用したせせらぎがあります。
せせらぎを過ぎてしばらく行くと、右のスーパーオーケーの先で世田谷通りに合流します。左手からは病院坂の道が下って来
ます。
病院坂
横溝正史氏の「病院坂の首縊りの家」のイメージはここだと成城近辺の人達は信じています。原作の舞台は東京都港区の
高輪で、「病院坂」の描写に正確に符合する坂道は実際に高松宮邸のすぐ脇にあり、魚藍坂下方向へ向かって下る急な坂
道だと言われています。でも横溝正史氏の自宅は成城の駅の南口から程近いところにありましたし、こちらの病院坂はお散
歩コースであって不思議でない場所です。絶対この坂からの発想です、絶対に。
病院坂の名前は写真右手の崖の上に陸軍野戦病院があったからだと聞いています。
戦後まもなくのこの坂は左右とも切り立った崖になった切り通しの坂で、左右の崖は赤土がむき出しになり、防空壕と思われ
る横穴だらけでした。崖最上部 1M位が黒土でしたが、下は赤土でした。教科書で習った関東ローム層のサンプルみたいな
場所でした。坂の上には生協のお店があったと思いますが、廃屋のようでしたし、昼でも人通りの少ない寂しい坂道で今は全
くその面影を残していません。成城の坂は不動坂、病院坂、赤土坂など曲がり道を右に左にと曲がりながら下る坂が何故か
多いですね。見通しがきかないのは気を滅入らせますし、交通安全の面からも大変危険なのに何でだろう。古くからある坂
道だからかな?
中之橋近くで見かけたアオゲラ。
滝下橋
滝下橋は現在の野川に架かっていた橋ではありません。次大夫堀(六郷用水)にかつて架かっていた橋です。
一の橋交差点から、野川迄、世田谷通りに沿って、六郷用水が流れていました。正式には 六郷用水と呼びますが、次大
夫堀 と呼ばれてきました。一の橋、二の橋は今では交差点の名前に残るのみですが、かつて実際に橋がかかっていまし
た。今の滝下橋緑道がその跡だと思います。
滝下橋緑道、にごりや酒店の辺りにひっそりと建っているのが、滝下橋石柱と思われます。
次大夫堀は、今から 約400年 前の江戸時代のはじめに徳川家康の家臣、小泉次大夫吉次 の指揮監督によって造られ
た農業用水です。
現在の福祉会館通り水神社ところに多摩川からの取入口があり、福祉会館通りからいちょう通りへと続き、岩戸で野川を
合流し、大田区六郷方面の水田をうるおすのが最大の目的であったと言われています。
福祉会館通りを流れる六郷用水に架かっていた今では交差点の名前に残るのみの、田中橋石柱とエコルマホール前に架
かっていた駄倉橋石柱が旧所在地の近くに残されています。
世田谷区喜多見には、次大夫堀公園があります。
次大夫堀(六郷用水)は次大夫堀公園から先で現野川に沿って崖線近くを丸子川として流れています。
滝下橋緑道は暗渠となっていますが、野川の所には、流入口がちゃんとあります。
雁追橋
滝下橋緑道が野川に突き当たる地点の少し下流にある橋です。次大夫堀(六郷用水)に架かっていた古くからある橋のよう
です。橋を北に向かうとお茶屋坂に出ます。お茶屋坂は明正小の西側を成城から下る坂でかつて喜多見重勝の茶室があっ
た事から名付けられたと言います。喜多見流茶道を創始した重勝は、慶長九年(1604年)武蔵国に生まれ、目付、大坂目
代などの要職を歴任した人物で、宗可流茶道の祖佐久間将監に茶の湯を学び、後に父、勝忠と親交の深かった小堀遠州に
師事し、皆伝を受けたと言います。宗可流と遠州流の茶道を会得した重勝は、その茶人としての技量を高く評価され、茶道
の一流派をなすまでに至ったのだそうです。
このような由緒を聞くと、坂も橋も侘び寂を感じる風情があるように思われますね。
ここから先六郷まで、国分寺崖線に沿って次大夫堀(六郷用水)は流れています。六郷方向に向かって左側は常に崖の下を
流れる形になります。左手上の台地に出るには坂を上る事になる訳でどの坂も上るのは結構しんどい。
お茶屋坂
喜多見氏(江戸氏)
喜多見氏(江戸氏)は喜多見の領主ですが江戸と言う名前の元祖にあたります。
平安時代、桓武平氏と称する秩父党一族出身の江戸氏は当初源頼朝と対立、後和解して御家人となる。
江戸氏は源頼朝の武蔵入国に助力、さらに源平の合戦、奥州征伐などに参戦し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって武
蔵七郷を賜りました。江戸城を本拠とした豪族でしたが,室町時代の戦乱の中、早い話が世渡りが下手で没落、康正三年
(1457年)には関東管領上杉家の武将太田道灌に本拠江戸城を追われ常陸の国へ移りますが、一族の喜多見氏はこ地
に残り世田谷吉良氏の重臣として小田原の北条氏に仕え、活躍したと言います。狛江は戦国時代には小田原の北条氏の
支配下にあったようです。狛江市のホームページ狛江の歴史には「永禄二年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には、江戸
衆太田新六郎(太田道灌の曽孫)の知行として、「駒井本郷」の名がみられることから、付近に集落があったことが窺えま
す。」との記述があります。この頃、江戸氏は喜多見を領地としていたものと思われます。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏に仕えていた江戸氏も小田原城内に立て籠もり、秀吉
の軍勢と戦いましたが、北条氏滅亡後に、喜多見に潜伏する事となりました。後北条氏に代わって関東に入国した徳川家康
は戦役の後、旧家、名族の者達を家臣に取り立て、その優遇策を計りました。江戸氏は、家康の新しい居城の地である江戸
をその姓とすることをはばかって喜多見と改姓しました。喜多見氏は徳川家康に喜多見村 500石を安堵され旗本となります
喜多見の城はその後は陣屋として継続したと考えられます。喜多見氏は後に喜多見重政の時に五代将軍綱吉の、側用人に
登用され 2万石 の大名に列せられるほどの出世をしましたが、元禄2年(1689年)刃傷事件により失脚し、お家取りつぶし
のうえ改易となり喜多見陣屋も廃されたと言います。
喜多見陣屋は須賀神社、第六天塚古墳の辺りにあったと言われています。
須賀神社
「湯花神事」という行事があり、世田谷区の指定無形民俗文化財となっている。
須賀神社の裏手にある古墳です。
第六天塚古墳
喜多見氏(江戸氏)の菩提寺は慶元寺です。
慶元寺
隣接した慶元寺幼稚園迄が世田谷区喜多見 4 丁目 。
慶元寺は江戸時代の武家・喜多見氏の菩提寺。現在の皇居の辺りを治めていた江戸氏が、室町時代の中ごろ太田道灌
によって追はれ、隠れ住んだのが木田見(今の喜多見)であり、江戸氏の名前も変え「喜多見氏」と名乗るようになったと言
われています。
(左) 山門、 (中) 本堂、 (右) 鐘楼
(左) 三重の塔、 (右) 稲荷塚古墳から見る慶元寺
中野田橋
雁追橋と中野田橋付近に姿を見せる鵜 05,09,30。中野田橋上辺りが水深が深くなっていて魚を獲るのに適しているらし
い。
中野田橋上辺りではカワセミも小魚を獲りにやって来ます。
ユリカモメも良く見かけます。