野川緑地公園付近
野川緑地公園は小金橋の狛江側からいちょう通り迄の旧野川跡 2,2KMです。
下流に向かって左側(調布市側)は神代団地になります。
下流に向かって右側の先は小金橋南交差点で、西野川せせらぎがあり、石橋供養塔が交差点脇に建っています。
(左)下の東屋の所から野川緑地公園が続きます。右に見えるのが小金橋。
(右)小金橋から小金橋南交差点が見えます。
石橋供養塔(小金橋南交差点)
小金橋南交差点の文化十三年(1816年)に建てられた石橋供養塔。
現在川はありませんが、ここには昔野川から引いた用水掘が流れていたので、橋があったのだそうです。
小足立、覚東の道
鶴川街道と鎌倉道を結ぶ道あるいは甲州街道の裏道とも言われる道だそうです。
矢野口辺りの人達が鶴川街道から品川通りを通り、この道を経て、鎌倉道に向かい、祖師谷から高井戸に抜けるのに使っ
た道と言います。
現在の「いなげや」の向かい側を入る道が子の権現三島神社の方に向かう道で、所謂大橋通りです。野川緑地公園の大橋
跡を過ぎて、この石橋供養塔に出ます。小金橋南交差点を曲がり、八幡通りに入りしばらく行くと小足立の鎮守様、小足立八
幡神社があります。八幡神社を過ぎた辻に地蔵尊 2 体と庚申塔があります。
いつも、きれいに手入れされていて、目を引きます。この辻を右に曲がると小足立通りに入ります。
小足立通りを進むと突き当たり、菊野台の法務局の通りに出ます。左に曲がれば、狛江通り(品川道)に突き当たります。
この道筋が小足立、覚東の道と呼ばれる道です。
この用水掘を復活させた流れが「西野川せせらぎ」です。
西野川せせらぎ
小金橋南交差点から、野川地域センター付近まで野川緑地公園に沿って流れています。
野川緑地公園
野川緑地公園にはトリムコースが2ヶ所あります。100Mおきに右のような距離表示があり、
一本は一中通りから御台橋までの折り返しコース1650M。
200M(1450M)地点のマユミの木
300M(1350M)地点のカスミザクラ
400M(1250M)地点のウワミズザクラ
花が上向きに立つ桜の樹です。
825M折返し地点には御台橋の石柱が残っています。
もう一本は、御台橋から小金橋までの折り返しコース1830Mです。
スタート地点には御台橋のモニュメント
300M(1530M)地点野川地域センターの前には大きなエノキがありヤドリギが見られます。
この付近のお宅で飼われているポニー。絵画教室をやっている方の庭らしいです。
600M(1230M)地点で大橋通りを渡ります。
下の写真は、大橋通りと野川緑地公園の交差するところにある記念碑。
(左)、(中)大橋の石柱 (右)全景
大橋改修記念碑
上の石柱とは建設時期が違います。さらに古い時期の改修記念碑です。
左手には花卉園芸の温室があります。
800M(1030M)地点、小金橋付近には西野川樹林地があり自然林が残されています。
825M折返し地点は新野川小金橋にあります。野川を望む東屋。
西野川せせらぎ
小金橋交差点から、野川地域センター付近まで野川緑地公園に沿って流れています。
狛江市内には比較的少ないハクウンボクの樹があります。
樹木の多い公園でセミやチョウなども数多く見られます
建物の外壁にとまっているオニヤンマ。いつも飛んでいるので写真に撮り辛いオニヤンマですが、とまっていれば容易に撮
影出来ます。
下2枚の写真は、いちょう通りの入口にある案内板。古くなってあちこちかすれてます。
小さい頃のことであまり良く憶えている訳ではありませんが、川で野菜を洗ったりしているのを見た記憶があります。
今でも緑地公園側に勝手口のあるお宅がかなりあります。そのころの名残りかもしれませんね。
狛江市内に永くお住まいの方からお聞きしたのですが、小さな道路に面した入口が正門、大きな道路に面した入口が
勝手口、何故と伺ったら、かつて、勝手口の前は用水掘が流れていたので家を建て直しても裏口はこちらと言うお答えでした
なるほどと、妙に納得。
また共同洗い場と言うのがあってご近所の皆さんが洗い物をしていたように思います。
仙川にあった共同洗い場は今でも憶えていますが、長方形のコンクリート造りか、石組みのもので川の水を取り入れて、
農家の方が野菜を洗っていました。当時は食器など洗うほど水が綺麗ではなくなっていたのかもしれません。
古い多摩川が作った河岸段丘崖(ハケ)に沿って70以上も点在する泉の小さな流れが集まって一つの川を生み出し、これが野川となる。
国分寺市恋窪から小金井、三鷹、調布を経て、狛江で六郷用水と合流し、世田谷区喜多見で入間川を合わせ、
世田谷区の二子橋上流で多摩川にそそぎ込んでいた野川。
普段は小さな流れでも、蛇行を繰り返しているため、大雨が降ると、よく氾濫した。
このため、この川を土地の人は「大川」または「あばれ川」と呼んでいた。
この川は、つい30年ほど前までは、飲料水溜概用水として人々の生活に密着し、また所によってはわさび畑を育み、
アユやウナギなどの漁の場でもあった。
ところが昭和30年頃からの、急速な宅地開発で、野川の周辺でも、田畑がつぶされ、雑木林が切り開かれて
湧水や雨水の貯水能力がなくなり、野川への流水量が増えていった。
33年9月26日、台風22号の襲来で、野川は各所で氾濫し、市内の被害は浸水家屋1,250戸、田畑の冠水42ヘクタールにも及んだ。
この年の12月に、世田谷、国分寺、小金井、三鷹、調布、府中、狛江の1区4市2町で準用河川野改修促進期成同盟を組織し、
野川の全面的な改修、特に狛江では新野川の建設促進という話が持ち上がった。
36年に、直線水路として全延長18,232メートルの都市計画決定がされ、
調布都市計画決定部分の5,082メートルについては、翌37年に事業認可され、工事に着手した。
この頃には、流域の民家や集合住宅の排水が野川に集中するようになり、清流が失われつつあった。
また、38年5月には、上流の工場からシアン液が野川に流入し、流域民家の井戸水を汚染し、
町全体を震憾させる「野川・毒液流入事件」も起こった。
さらに、41年6月27日から28日にかけての台風4号でも氾濫し、床上772戸、床下918戸、
田畑の冠水40ヘクタールの大被害をもたらした。
これらの苦い体験は、新野川の完成を早めることになり、42年6月、新野川は放水を始め、
野川に起因する水害の心配はなくなった。
あばれ川との異名をとった旧野川は、49年から3年の歳月と1億700万円の工事費を費やして、
延長約2.2キロメートル、平均幅員10メートルの緑地公園として生まれ変わった。
今では、四季を彩る緑の散歩道として、ジョギングコースとして、また子どもの遊び場として、市民に親しまれています。
(狛江市ホームページ狛江市の歴史から原文のまま)