京都の庭園

東福寺(京都府京都市東山区本町) ’05年11月

東福寺塔頭竜吟庵庭園 ’05年11月

銀閣寺(京都府京都市左京区銀閣寺町) ’05年11月

南禅寺(京都市左京南禅寺福地町) ’05年11月

天龍寺(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町) ’05年11月

龍安寺(京都府京都市右京区竜安寺御陵ノ下町) ’05年11月

二条城(京都府京都市中京区二条通り堀川西入) ’05年11月

仁和寺(京都府京都市右京区御室大内町) ’05年11月

金閣寺(京都府京都市北区金閣寺町) ’05年11月

円山公園(京都府京都市東山区祇園丸山町) ’05年11月

 

名庭園を歩いてみました。このページは随所で重森千青氏「日本庭園の美」の記述を引用させて頂いています(感謝)。

重森千青氏は著書、講演、旅ガイドなどでご存知の方も多いと思いますが、祖父三玲氏は東福寺本坊方丈庭園、東福寺塔

頭竜吟庵庭園などの作庭で知られる現代日本庭園を代表する作庭家です。私は重森三玲氏を、作庭家で茶人、日本のダ

ヴィンチと称される小堀遠州とともに尊敬しています。孫であり優れた作庭家でもある重森千青氏の言葉をそのまま引用させ

て頂くのがベストと考えてあえて使わせて頂いています。

 

東福寺(京都府京都市東山区本町)

東福寺本坊方丈庭園

「臨済宗慧日山東福寺は、同派の大本山である。創建は延応元年(1239)で関白九条道家によって着工が進められた。道家

は時の関白九条兼実の孫、後京極摂政良経の子であり、本寺は九条家の邸宅一切を寄進して造営され、洪基を奈良の東

大寺、盛業を興福寺につぐものとして東福寺と命名された。本庭は非常に荒廃していたため、年昭和14年に永代供養(御奉

仕)という形で作庭された。方丈建築を中心として、南庭、北庭、西庭、東庭の四つの部分からなり、南庭には蓬莱、方丈、瀛

州、壺梁の石組と、五山の築山を構成し、北庭には勅使門内にあった敷石の廃物利用による市松の庭、西庭にはこれも廃

物を利用した井田式の庭、東庭も東司にあった柱石の一部を使った廃物利用で、北斗七星の庭としている。このように蓬

莱、方丈、瀛州、壺梁、五山、市松、井田、北斗七星の八つの庭園構成により八相の庭と命名された。この作品は戦前に設

計されたにもかかわらず、非常に意欲的な作品であり、未だに現代の庭園以外の創作家達にも多大な影響を与えている。」

                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

尊敬する重森三玲氏設計の枯山水様式の現代日本庭園の傑作。05年11月訪ねてまいりました。

方丈前庭(南庭)

 

 

西庭

井田式の庭

 

北庭

勅使門内にあった敷石の廃物利用による市松の庭。

 

東庭

東司にあった柱石の一部を使った廃物利用の北斗七星の庭。

(左)紅葉に映える通天橋 (右)通天橋から見る紅葉

 

東福寺塔頭竜吟庵庭園

こちらも重森三玲氏設計の枯山水様式の現代日本庭園の傑作。竜吟庵の方丈建築は国宝。

「東福寺塔頭である竜吟庵は、南禅寺の開山である無関普門大明国師の塔所でもある。ここの方丈建築も国宝であり、建築

が素晴らしいものの、庭らしいものがなかったために、昭和39年作庭寄付金を重森三玲が奔走してかき集め、作庭に至っ

たのである。戦前から昭和30年代というものは、どこの寺も財政的に苦しく、このような形で作庭されたところが多いのであ

る。本庭のテーマは本庵の竜吟からとり、竜が大海中から黒煙に乗って昇天するというものを抽象的に表現したもので、中

央部に竜頭の石と角二本の石を組み、胴の各石は海中に円形を描いてわだかまり、その間に黒白の砂紋による海波と雲紋

とを織り交ぜた構成で表現されている。今までにはない非常にモダンなデザインであり、完成後すでに30年以上たっている

が、デザイン意匠は色褪せることなく、更なる輝きを持って、すでに現代の古典となり、重森三玲の目指した永遠のモダンの

領域にはいっている。」

                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

方丈庭園

 

 

 

竜吟庵方丈(国宝)

東福寺第三世住持無関普門(大明国師)の住居跡で方丈(室町時代)は単層入母屋造り、こけら葺。その正面は七間(約 

12.7m)、梁間は五間(約 9m)、柱間中央に両開き板唐戸の入口を設け、両端の柱間には遣戸をはめ込むなど書院造に

寝殿造り風の名残りをとどめた、現存最古の方丈建築です。

偃月橋(重文)

本坊より塔頭、龍吟庵に渡る三ノ橋渓谷に架かる木造橋廊で、桁行十一間、梁間一間、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。

開山堂(重文)

通天橋を渡った先にある、別名常楽庵。元の建物は文政二年(1819年)に焼失、文政六年(1823年)、一条忠良によって

再建されました。屋上に閣を持つ類例を見ない開山堂。

三門(国宝)

三門は南都六宗寺院の中門にあたります。大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様をたくみに組み合わせた建造方式となっ

ているのだそうです。五間三戸、重層入母屋造、両脇に階上へのぼる山廊を設けた、日本最大最古の遺構です。応永年間

(1394年〜1428年)足利義持の再建による建造物。


 

銀閣寺(京都府京都市左京区銀閣寺町)

池泉回遊式と砂盛様式の庭園。05年11月訪ねて参りました。

観音殿(銀閣)、東求堂は何れも国宝

 

「足利義政が文明14年より数年にわたり造営,善阿弥など当代一流人の作庭、東求堂内同仁斎は、室町書院の代表であ

る。その前庭は当初の作庭が保存されているが、元和元年、宮城豊盛が大半を改修した。銀沙灘、向月台の砂盛は新鮮な

美の極致である。」

                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

東求堂前庭

室町時代の橋石組を伝える池泉庭園。

「本庭園の石橋は、東宮堂前の池庭の中島に三橋架けられている。また池泉の西側にも中島があり中央の出島とこの中島

に対して石橋一橋が架かっている。この慈照寺の庭園も幾たびか改造されており、その中でも三橋の架かっている部分は作

庭当初の姿を今に残している部分であり、鎌倉時代に比べるとやや一橋分の折れ方がきつくなっているが、やはり古い時代

の優雅な橋石組の姿が良く残されている。」
                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

池の向こうに銀閣を眺める。

 

銀沙灘、向月台の砂盛

 

お茶ノ井庭園

昭和六年に発掘した岩石群は枯山水庭園様式の庭園の遺構で、お茶ノ井庭園とも言うそうです。

お茶の井、足利義政公が茶の湯に使った水をここから取った。

 

銀閣寺垣

この垣根は建仁寺垣の変形で、銀閣寺の入り口付近に用いられているのでこの名があります。高さが三尺内外、横竹は二

本だけで、上に冠竹を使用している。この竹垣の下が石積みになっており、背後にアラカシやネズミモチなどを用いた生垣を

構成し、石積みの上品な変化と、竹垣と生垣を巧みに合わせた使い方をしています。

ちなみに建仁寺垣は祇園の奥にある建仁寺入口に見本が展示されています。見本は実際の寸法よりかなり大きく作られて

います。

「京都の建仁寺にあるためにこの名前が付いたが、竹垣の中でも非常に代表的な垣根の一つである。江戸時代に入ってか

ら流行し、その様子が当時の書物に書かれている。柱、胴縁竹、押縁竹に割竹を竪子として隙間なくくりつけた竹垣である。

完全に遮断してしまいたいときや、ちょっとした目隠し等に広く使われている。代表的な寸法としては、割間が五区よりなり、し

たから五寸(約15cm)、一尺(約30cm)、一尺三寸(約39cm)、一尺三寸、五寸というような寸法で作られ、総高が四尺九寸(約

148cm)で,上に一本の冠竹を用いるために、五尺(約152cm)の高さの垣となる。これが真の建仁寺垣という。」

                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

 

庭園内の苔が展示されていました。写真は大事な苔、隣に邪魔な苔も展示されていました。

 

紅葉が美しい。

 

南禅寺(京都市左京南禅寺福地町)

方丈(国宝)

南禅寺方丈庭園

枯山水様式の庭園。南禅寺塔頭金地院庭園が小堀遠州の作である事からか、方丈庭園にも小堀遠州が関わったと言う説

もありますが作庭者は不明のようです。05年11月訪ねてまいりました。

 

「この庭園は方丈の南庭として作庭されている。作庭者は不明であるが、様式から考えると元禄頃の作庭と考えられる。南

部から西部にかけて土塀をめぐらし、東西に細長い地形に作庭されている。石組はこの土塀に添って配置されており、東南

の角に巨大な石を横に寝かして配置されている。また中央付近の石組も同様に横石として扱っている。この横に扱う手法

は、元禄の頃によく見られる石組意匠であること、また立石が見あたらないこと、また土塀によせた枯山水の意匠は江戸初

期半ば頃の特徴でもあり、これらのことから元禄頃の作庭ではないかと思われる。しかしながら、禅院庭園としての格調高さ

があることに異論はない。」

                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

 

 

 

三門(重文)

五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊を持ち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式の建築(1628年)です。

 

紅葉も見事でした。

 

天龍寺(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)

夢窓国師作庭の曹源池庭園は、嵐山、亀山などを巧みに取り入れた借景式庭園として、わが国では初めて特別名勝に指定

れ、池泉回遊式庭園として最も古い遺構とされます。05年11月訪ねてまいりました。

 

曹源池庭園

「現存している石橋の中で最も古い例として、天龍寺の橋石組がある。滝石組の前に架かっているものであるが、橋石組の

形態は、主として三橋式のものが多く、二橋は直線的に架けるが、残りの一橋は矩形に折られて架けられている。しかしなが

らその折り方が、時代が新しくなるにつれて、次第にその折れ方が強くなっていくことから、様式上の大凡の時代鑑定できる

手段として憶えておくと良いであろう。橋石の厚みなどは、室町期から桃山期のものは薄い石が用いられることが多かっが、

後に厚みのある石が好まれるようになる。特に天正から慶長期にかけては厚いものを使った例が多い。また切石の橋石は

江戸初期以降のもので、やや反ったものとして拵えられ、西本願寺の対面所のものや徳島城の千秋閣庭園のものは代表的

である。」

「滝石組は、実際に水を落とす滝と、石だけによって水がさも落ちているように表現された枯滝石組の二種類がある。水を落

とす滝石組として古い形態を良く保っているものとしては、京都天龍寺にある滝石組(現在涸れているが、大雨などが降って

実際に水が落ちる様をよく観察していると、素晴らしい滝石組であることが納得できる。)や鹿苑寺の滝石組などがある。」

                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

中央の法面に滝石組、池に橋石組があります。

 

 

 

紅葉も見応えあり。

 

龍安寺(京都府京都市右京区竜安寺御陵ノ下町)

室町時代、応仁の乱に焼亡した細川勝元の山荘を、明応八年に、その一子政元が義天禅師と協力再興した。

その時作庭したと思われる。方丈の前庭を初めて庭園に開発し、枯山水を確立した創意、七五三配石技術の妙、大徳寺大

仙院と対照的に石庭の最高峰と称えられる庭園。京都を代表する石庭として広く知られ、白砂の上に配置される大小15の

石はどの位置からもすべてを一度に見ることが出来ないと言います。05年11月訪ねてまいりました。

 

方丈前庭

石庭で知られる庭園。あまりに有名なのでこれだけで。

私のような凡人には高度すぎて難解、俄かには理解出来ない庭でした。

苔も見事

鏡容池、西源院はこの畔にあり湯豆腐が食べられる。大変美味しかったです。

 

二条城(京都府京都市中京区二条通り堀川西入)

二条城二の丸庭園

小堀遠州がかかわったと言われる池泉庭園様式の名庭園。

 

 

二の丸御殿(国宝)

(左)本丸御殿(重文) (右)本丸庭園

京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治二十六年から二十七年にかけて本丸内に移築したもの。

清流園

池泉回遊式庭園と芝生主体の西洋庭園の国賓・公賓の接遇場所として昭和40年(1965年)に造られた現代日本庭園。

二条城は松の緑とイチョウの黄葉が綺麗でした。

 

仁和寺(京都府京都市右京区御室大内町)

05年11月訪ねてまいりました。境内で水戸黄門様ご一行に遭遇、記念写真を撮らせて頂く。

 

御殿庭園

御殿を中心に、勅使門、白書院、黒書院、宸殿、霊明殿、白砂の南庭、池泉回遊式の北庭で構成されています。江

戸時代初期に宸殿として京都御所の常御殿を賜ったが明治二十年(1887年)に焼失したため、大正にかけて御

殿全体が新築されました。

 

北庭

江戸時代初期作庭の池泉庭園様式の庭園です。

 

 

宸殿南庭

(左)左の門が勅使門、右に右近の橘、左に左近の桜 (右)宸殿入口

黒書院、襖絵は堂本印象が描いたもの。

 

(左)金堂(国宝) 

桃山時代に建てられた京都御所の紫宸殿を江戸時代初期に移築した建物で、現存する最古の紫宸殿の遺構。

(右)鐘楼(重文)

五重塔(重文)

二王門(重文)

 

金閣寺(京都府京都市北区金閣寺町)

創建当初(鎌倉時代)の原形がよく保存されている一流の名庭園とされます。池泉回遊式庭園です。05年11月訪ねてまい

りました。

お寺廻りも一日何ヶ所も廻ると最後は力尽きて物見遊山程度になってしまいます。花より団子とお茶屋で団子を食し、金閣を

バックに記念写真を撮って終わってしまいました。次回庭園を詳細に見て参りたいと思います。ご免なさい。

 

「京都市北区。臨済宗相国寺派。鹿苑寺の滝石組は、いわゆる竜門式の滝石組。中国黄河の上流にある滝を竜門瀑とい

い、これを模したものを用いた。また中国の伝説による三級岩と呼ばれる三段の滝を、下流から上ってきた鯉が登ろうとする

が、なかなか登れない。その不可能な滝を、もし万が一登ることが出来れば竜と化し昇天する。この伝説を竜門瀑と共に様

式化し、竜門の滝とも称せられる。鯉魚石を用い、これを下方に配することによって、鯉が滝を登って竜と化すという表現が

なされている。天龍寺と共に、代表的な竜門式の滝石組である。」
                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

 

舎利殿(金閣)

さすが金閣、どうしても目が行ってしまいますね。

 

金閣寺垣

次回ご紹介します。

「四つ目垣の変形種で、本歌は京都の鹿苑寺(通称"金閣寺")の竜門瀑より夕佳亭に至る石段や、夕佳亭付近に用いられて

いる竹垣で,縦も横も丸竹を使い、冠竹を用いているところがおもしろい。やはり簡素ながら非常に趣のある竹垣である。」

                                                      (日本庭園の美、重森千青氏より)

 

円山公園(京都府京都市東山区祇園丸山町)

小川治兵衛氏作(明治時代)の現代日本庭園。池泉回遊式庭園です。明治時代の庭園は、江戸中期から起こった自然風景

主義的な庭園の集大成の時代とされ、この時代の傑出した作庭家が小川治兵衛氏です。

05年11月訪ねてまいりました。お寺廻り庭園廻りも一日何ヶ所も廻ると最後は力尽きて物見遊山程度になってしまいます。

偽の舞妓さんが池をバックに写真を撮っていました。次回ご紹介します。

園内の庭地下水から引いた滝の水は変化に富んだ流れとなり瓢箪池に注ぐ。長方形と円形の石を組み合わせた石橋は枝

垂桜が最も美しく見える地点に据えられている。この枝垂桜の親桜は名樹とうたわれたが、昭和二十二年、枯死した、有名

な「祇園の枝垂桜」だそうです。