石川県
金沢市
07’8月、今回の旅はバスツアーですが、ホテルの朝食と観光地までのバスが用意されているだけのツアーとなっています。
観光地の見学は全て自由散策、自分達のプランで巡るというもの。昼食、夕食ももちろんです。自分達の好みで組立てられ
る旅なので参加してみました。
夕方金沢のホテルに到着。本日の夕食を戴くことに。ホテルの場所が香林坊、金沢一の繁華街のようで金曜日の夕方でも
あり、大変な賑わい。居酒屋割烹の「ぶん家」に入る。
加賀太きゅうり、ごりの唐揚げ
普通のきゅうりが添えてあるのがにくいところ。ごりは半分食べちゃった後の写真でごめんなさい。
「金沢の秋から冬にかけての味覚として知られるゴリは、淡水に棲む雑魚の総称で、「カジカ」を指している。ゴリは、唐揚げ・
照焼き・甘露煮・さしみ・あらい・柳川・骨酒・吸物などに料理されるが、浅野川の常盤橋たもと「ごり屋」が元祖といわれ、鏡
花・秋声・犀星の作品にも描かれている。」これがごりの能書きです。
本日一番の楽しみ、のど黒の塩焼き
加賀料理の名物、鴨の治部煮
「ひとつの料理が専門の椀を持つというのもちょっと珍しいのではなかろうか。この「じぶ煮」は吸い物椀より浅い「じぶ煮」な
る専用椀があり、それだけ加賀料理として工夫されてきた証拠である。旬の根菜や、茸など小麦粉を付けた肉を煮込んだ汁
で食べる。和風料理としては一風変わった料理法である。薬味にはわさびが添えられる。昔ながらの鴨肉を用いたのは絶
品。」以上この料理の能書きです。
いしる焼き。「いしる」は、イワシやイカの内臓を塩漬けにし一夏寝かせて自然発酵させ、その汁を煮詰め、こしてできたもの
で、日本には珍しい動物性蛋白質の熟成によるものであり、三大魚醤の一つと書いてありましたがやはりちょっと甘い。三大
魚醤って何、秋田のしょっつるもその一つかななんて考えたりしておりました。
金時草、「藩政時代に金沢へ伝えられ、葉の色が金時サツマイモの色に似ていることから名付けられたともいわれています。
おひたしや酢の物が親しみのある料理ですが、近年、その色をいかした加工品も開発されています。抗酸化性物質が多く含
まれていることから、がんや糖尿病、脳卒中など生活習慣病を予防する効果があります。」以上金時草の能書き。なかなか
美味しい。
ほかに、刺し盛りなどを戴く。加賀料理はやや甘口のようです。五百数十キロを一気に走り抜けて来ましたので今日はホテ
ルでお休みなさい。
二日目
明け方ホテルの裏の通りにパトカーが5〜6台駆けつけてきました。付近のお店でなにかトラブル発生の様子。
トラブルの元の男性が連行されたようで、朝まで騒がしい。この片町、香林坊一帯は歌舞伎町と原宿・渋谷が隣り合わせに
なった街のようで、ちょっと物騒な面もあります。
ホテルのすぐ先を流れる犀川まで、朝の散歩に出かける。左の写真の橋が犀川大橋、右の写真の両岸の道が犀星のみち
です。左の写真のベンチの横の石は芭蕉翁の句碑。
何の説明文も無く、ひっそりと建っています。
奥の細道で詠まれた「あかあかと 日は難面も 秋の風」の句が刻まれています。
倶利伽羅峠を越えて、金沢入りした芭蕉翁は京屋吉兵衛方に泊まり、翌日に宮竹屋喜左衛門方に宿を移し逗留したと言い
ます。この宮竹屋があったのが片町スクランブル交差点あたりで、「芭蕉の辻」と刻まれた標柱があります。スクランブル交差
点そばの植え込みの中にあり目立たないので沢山の人が通る所ではありますがほとんどの人はそれに気が付かずに通り過
ぎていると思われます。写真右の植込みの左に建っています。
奥の細道には小杉一笑の追善の事が書かれています。一笑は金沢における芭風の先駆をなした俳人で、芭蕉翁はこの才
能に注目しておりこの旅で会うのを楽しみにしていました。しかし芭蕉翁は金沢に到着したその日に前年に一笑が亡くなった
ことを知るのです。野町の「願念寺」で追悼会が催され芭蕉翁は「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」とその悲しみを詠んだと
されます。野町の「願念寺」にはその句碑があるそうですが、今回は訪れる事が出来ませんでした。
さらに香林坊の交差点あたりを散歩。
北国街道の要衝で番所があった所。橋番人が橋を往来する人々を厳しく監視していたそうです。
(左)香林坊橋の石柱
(右)香林坊の柳。吉田健一植樹と書かれた石柱が脇にありました。吉田茂の長男である吉田健一氏も金沢を愛した一人
であったそうで「金沢」という作品を残していますから、いわれは書いてありませんがそうかなと納得。
下は「百万石通り」香林坊から金沢城に向かう大通り
百万石通りより犀川寄りの並行する道。原宿あたりに相当する所のようです。早朝にもかかわらず、若者で一杯。夜中中遊
んでいるようです。大通りには客待ちのタクシーが並び、怪しい客引きもまだ見受けられます。
香林坊の交差点を入ると、用水が流れ、左手に割烹が立ち並んでいます。この左手が長町武家屋敷街です。早朝は観光客
も少なく、散策にもってこいですが、後で紹介したいと思います。
ホテルで朝食後、兼六園に向かいます。
香林坊交差点から「百万石通り」に入り、旧四高校舎の前を進み、
県庁の前の2本のしいの木の大木(国指定天然記念物)を眺め
「石川県庁本館正面玄関の左右にある2叢のスダジイ。向かって右のシイは、根元周囲7.4メートル、高さ12メートル、左の
シイは根元12メートル、高さ13メートル。昭和27年(1952年)頃、衰弱が著しくなったため、クロカミキリ、シロスジカミキリ
などの潜孔虫の防除をはかり、種苗を本株の周辺に補植し、施肥をし、樹形を整えている。現庁舎のあたりは、前田利家が
文禄4年(1592年)に、京都の三十三間堂を模した堂形の的場を作らせたことから藩の米蔵(堂形米蔵)が置かれた。その
後たびたびの金沢の出火で類焼の難にあったため、堂形前は火除地として広場とされ、万治3年(1660年)に馬場となり、
天明元年(1781年)には、老樹が妨害になるというので多く伐り払われたという。日置謙氏の『加能郷土辞彙』は、このシイ
は、その折に伐採を免れたものであろうとするが、もとより推定にすぎない。」以上説明書き。
広坂緑地を過ぎると
兼六園真弓坂口に
兼六園 (石川県の庭園)に掲載
金沢城
兼六園から見る金沢城石川門(重要文化財)
石川門
五十間長屋
菱櫓に続く「五十間長屋」は、一般的には「多聞櫓」と呼ばれるもので、武器や什器等の倉庫です。 2階へ上がると、太い松
の梁等、木組をそのまま見ることができます。2箇所の石落があります。近年再建された建物。
鶴丸広場を塀の丸窓から望む。外人の女性がこのアングルで写真を撮っていたのに興味を引かれまねして撮ってみました。
塀は新しいものなのですが、この楽しみ方は京都あたりでも見られますね。長い塀に一箇所だけ丸窓を設けた設計がおしゃ
れで設計者のセンスが窺えます。
三十間長屋(重要文化財)
本丸付近にある 2層 2階 の多聞櫓で、石川門と同様に重要文化財に指定されています。
安政5年(1858年)の築で、現在の長さは 26 間半あるそうです。南面は入母屋造り、北面は土台の石組よりも外壁がさが
っており、切妻造りになっています。
石垣
切手門と旧第六旅団司令部
菱櫓
手前二の丸広場から菱櫓を見る。二の丸でもっとも高い建物。金沢城は天守閣のないお城だったので城のシンボルとなる建
物。こちら側は裏側にあたります。
内掘
新丸広場
大手掘(外堀)
金沢城を出て尾崎神社に向かいます。
尾崎神社
加賀四代藩主前田光高が、寛永20年(1643年) 金沢城北の丸に建造。明治9年に現在地に移った。本殿、拝殿、幣殿、中
門などの建造物はすべて朱を基調とする漆塗りで、各種の彫刻、刳形、飾金具で装飾が施され、その豪華絢爛たる建築美
は、日光東照宮の縮図といわれています。重要文化財。
天照大神、東照大権現(徳川家康)、三代藩主利常を祀る神社で前田家のお家安泰を図るごますり的なものかも?
徳川の葵の紋が使われています。
このすかし塀も重要文化財。
尾山神社
明治 6 年に、歴代の加賀藩主が住んでいた旧金谷御殿跡地に創建された比較的新しい建物。御祭神は初代加賀藩主の
前田利家公とお松の方。ギヤマンをあしらった神門が有名。
尾山神社庭園 旧金谷御殿庭園
県指定名勝。以下説明書き。
「尾山神社が建てられた明治6年(1873)以前は、加賀藩主の別邸金谷御殿のあったところで、現在の庭園は、江戸末期から
神社の創立までの間に作庭されたと思われる。辰巳用水を分流して当庭に水を引き入れた池泉回遊式の庭園であるが、藩
邸としての書院庭園の形式をそのまま伝えている。池泉を中心に、中島とそれを結ぶ種々の形の趣向を凝らした橋が架けら
れ、背後に小高い築山があり、池畔に迫っている。東南部の上流部には、滝口を設け、数段の流れを造り、池泉に導かれて
いる。この庭の各部には、楽器にちなんだ命名が多く、神社にかかわりの深い雅楽を象徴的に表現している。池泉の島は、
中央の手前に笙島、その背後に鳥兜島、琵琶島と三島を配し、島々を巡る形で、図月橋・琴橋・八ツ橋などが架けられてい
る。左手奥には、滝石組があって、その名称を「響音瀑」と称し、美しい水流が音をたてて池泉へ流入している。対岸の大木
の茂る築山が庭園の背景となっており、市街地中央部にかかわらず幽邃の境地を形づくっている。」
池につがいの蝶が舞っていました。
さし石(力石)
触ると健康になるそうです。
(左)本殿 (右)お松の方の碑。利家公の像が隣にあります。
導水管
辰巳用水の水を兼六園からここまで引くのに使用された庄川上流金屋石の導水管。
神門
ステンドグラス(5色のギヤマンを嵌めたもの)の使われた変った門。重要文化財。
「設計及び造営工長に津田吉之助があたった。和漢洋の三様式の折衷様式とも見える異様な形で、竜宮城を思わせるとい
われ、石積みのアーチなどは、当時大いに新風を誇ったものであったろうが、一方では文明開化の西洋かぶれともいわれ
た。しかし発起人長谷川準也の趣意書によれば、ことさらに珍奇をめざしたものではなく、強いて伝統を踏襲せず、堅固をめ
ざしたものであるという。初層の3連アーチの骨組は、完全な木造で、日本建築の技法でできている。3層目は、4方に5色の
ギヤマンを嵌め、ここに灯をともして金石近海を通る船に灯台の役目をしたという。避雷針の先までの高さは約25メートルあ
る。」以上この建物の解説より。
こちらが表側。
神門を出て武家屋敷跡に向かいます
長町武家屋敷跡
加賀藩士、中級武士達の屋敷跡。木羽板葺きの屋根のついた黄土色の土塀や武士窓のある長屋門が当時の面影をしの
ばせる定番の見所。
足軽屋敷
清水家
(左)縁側 (右)厠
(左)納戸 (右)座敷。床の間と仏壇
(左)茶の間 (右)竹を半割にした雨樋
高西家
(左)手前、玄関の間、中、座敷、奥、土縁 (右)流し
高田家長屋門
中級武士の屋敷跡。長屋門だけが保存されている。県指定重要文化財。
(左)全景 (右)厩
(左)門部分 (右)仲間の部屋
庭
庭の見本園
土塀
金沢市老舗記念館
藩政時代からの薬種商「中屋薬舗」の建物を移築したもの。1階はみせの間、おえの間などを復元し、2階は金沢の金澤老
舗百年會の協力で老舗に伝わる生活諸道具が展示されています。
あまりに暑いので休憩所で一休み。公営の施設のようで、地域のボランティアの皆さんが説明をしたり観光スポットを紹介し
たりしてくれます。ボランティアの方にどこからと聞かれましたので江戸からと答えたのですが、その言い方が気に入ったとか
で、延々と金沢について説明していただき、有り難いけど、涼めないよー。
このお方は、金沢に来る人達が「小京都」と観ているのが気に入らないらしく、この前来た大学の先生までそんな事をおっし
ゃるといきまいておりました。要するに金沢は武家文化、加賀百二十うん万石の城下町でそれも言うなら「小江戸」の方がよ
り近いと言う事のようです。加賀百万石ではなく、端数の石高までおっしゃるのがすごい。
何て言ってるうちに、ちょうど昼時になりました。
金沢はおでん屋さんの多い街でもありますので、創業昭和2年の老舗「赤玉本店」で昼食を摂る。お盆の真っ最中で昼の定
食はお休み。一品のおでんをつまみ、名物の牛筋の煮込みを食べる。一杯飲みたい気分ながら茶飯で我慢。
しばらくホテルで休憩。
午後二時半に輪島の朝市見学組と合流してツアーの目玉の一つ東尋坊に出発
東尋坊から午後7時過ぎ金沢に到着。
今晩は加賀懐石を戴く事にしました。
香林坊の「蛇の目寿司本店」割烹に入りコースを注文
下は八寸
左の具を巻いてあるのは太きゅうり。
治部煮は醤油をきかせたちょっと辛口の仕立てと聞きましたが、やっぱり甘口。