東京都の庭園 2

芝離宮恩賜庭園(東京都港区) ’09年5月

5月4日のみどりの日。浜松町駅すぐの芝離宮を訪ねました。

高層ビルの谷間になった庭園ですが、以前取引先のオフィスから真下に見えたので、一度来て見たいと思っていた次第。

「小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つです。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池

を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。明暦(1655〜1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝

6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領しました。忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師

を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。

庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有とな

り、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被

害を受けました。翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を

施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。」

(説明より)

回遊式泉水庭園

「泉水は、この庭園の要を成す施設です。池は海水を引き入れた「潮入りの池」でした。引き潮の時は中島から浮島に渡れ

たり、潮の干満により州浜や島々の風景が劇的に変化したといわれています。今は残念ながら海水の取り入れができなくな

り、淡水の池になっています。」(説明より)

藤棚の辺りに、当初御殿(明治には離宮洋館)があったと言いますから、この眺めが庭園の面にあたると思われます。

入口辺りの藤棚からの眺め。

海水取入口跡からの水路。

 

 

海水取入口跡付近に咲いていた「シロバナシラン」

左奥に弓道場、その手前に大燈篭、大きな樹はタブノキ。

水辺には杜若。

 

(左) 中島と中島に渡る橋 

(右) 西湖堤。小石川後楽園にもありました。この橋で中島に渡れます。

 

 

作庭時の石組みがそのまま残されているそうです。

 

 

 

 

鯛形の根府川石の橋を渡ると右手に豪壮で圧倒されるような築山があります。その山麓に根府川石の飛石が端正な形に敷

かれています。

 

根府川石の石組み

唐津山

根府川石の飛石。

 

 

 

 

山渓を流れ落ちる滝を彷彿とさせる石組です。川床が通路になっていて通り抜けが出来る珍しい造り。

途中でほぼ直角に曲がっているので二方向から滝石組みが楽しめる趣向。

砂浜

 

 

石柱の付近からの眺め。西湖堤と中島の眺めが一番の場所。真中の島は浮島。

洲浜

雪見灯篭が立つ洲浜がこの庭園一の景勝ポイントと庭園ガイドにあります。

さほど大きな池ではありませんが、見る場所によっていろいろな景観を楽しめる見事な造り。築山の高台があちこちにあり、

頂からの眺めが楽しめます。作庭時の石組みその他がかなり残されている、東京屈指の名庭園と言えます。

是非一度訪ねてみては如何でしょうか。

 

浜離宮恩賜庭園(東京都港区) ’09年5月

5月4日のみどりの日。都内屈指の名園とされる、浜離宮を訪ねました。

潮入の池と二つの鴨場が特徴の異色の大名庭園です。家族連れでも楽しめます。

「潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変

えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池

でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この潮入りの池や池や鴨場を中心にした

南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。

この地は、寛永年間(1624〜1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四

代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸

を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸とな

り、名称も浜御殿と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のとき

にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。

明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な

建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和

21年4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27

年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。」(庭園の説明より)

中の御門入口の堀

入口にあった園内マップ。

野外卓広場

中の御門入口入って右手の広場。

新銭座鴨場

鴨場入口

 

池では鴨が羽を休めておりました。

鴨塚

 

ミズキの花が満開。

根方には踊子草が咲いていました。

潮入の池

 

左岸に燕の茶屋跡、中央に小の字島、右岸に中島の御茶屋。

 

 

燕の茶屋からの眺め。

 

 

中島の御茶屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右の橋は「海手伝い橋」

庚申堂鴨場入口と鴨場

水門

 

左「樋の口山」、右「新樋の口山」

隅田川と水門で繋がっています。

水上バス発着所

急ぐ旅でも無いので、「竜馬」号で浅草まで水上バスの旅。

船は水門を出て日の出桟橋に向かいます。

晴海の旅客船ターミナルには大きな船が入っていました。

レインボーブリッジも一望できます。

日の出桟橋を出て浅草へ隅田川を上ります。

魚河岸を通過。

 

勝鬨橋 (重要文化財)

「東京港修築計画に基づいて架けられた勝鬨橋は、当時国家的イベントとして予定されていた万国博覧会へのメインゲートと

しても利用するために、当時の最先端技術の粋を集めて建造されました。万博自体は戦争の激化により中止となりました

が、勝鬨橋は昭和15年6月14日に完成しました。中央が開閉する勝鬨橋は、完成当時は跳開橋として東洋一の規模を誇っ

ていましたが、隅田川を航行する船の減少、交通量の増加などによって、昭和45年11月29日の開閉を最後に、現在では開

かずの橋となっています。」(説明より)

 

 

佃大橋

中央大橋

永代橋 (重要文化財)

「元禄11年(1698年)に永代橋は上野寛永寺本堂の材木を使い深川と日本橋を結ぶ橋として架けられました。永代橋は歴

史的な事件に登場しております。赤穂浪士が討ち入りの帰りに渡った橋として有名で、橋の近くには赤穂義士休息地の碑が

立っています。また文化4年(1807年)には富岡八幡祭礼の多くの見物人により、橋の一部が落ち多くの死者がでたという

大惨事がありました。今日では深川八幡祭りの神輿と人とが華やぐ橋として有名です(もちろん現在の橋は堅固なものです

ので落ちる心配はありません)。現在の橋は、大震災復興事業の最初の工事として架け換えられ重量感あふれるシンプルな

アーチ型で、テレビドラマやお天気カメラのロケ地としてよく登場しています。」(深川観光協会説明より)

 

隅田川大橋

清洲橋 (重要文化財)

「関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設

計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあった大吊り橋

をモデルにしている(この橋は第二次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を

使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。」

(ウィキペディアより)

 

新大橋

漫画、アニメ界の巨匠、松本零士氏がデザインした宇宙船のような「ヒミコ」号とすれ違う。

両国橋

蔵前橋

厩橋

厩橋の袂には屋形船が係留されていました。

駒形橋

吾妻橋

言問橋

浅草で下船。ちょっと遅めの昼食を摂り帰路に。

 

新宿御苑(東京都新宿区) ’09年5月

新緑の 5月新宿御苑を訪ねました。

幼稚園か小学校の遠足で来たことのある、お馴染みの場所ですが、年を取るとまた違った見方の生まれる庭園ですね。

「ゆるやかな池の流れに沿った、池泉回遊式の庭園です。古くは鴨場として作られ、昭和のはじめに日本庭園として改装され

ました。歴史建造物「旧御凉亭」や皇室ゆかりの菊花壇展をはじめ、ウメやサクラにカエデの紅葉、冬のオシドリなど、四季

のみどころも多い、情緒あふれる庭園です。」(説明)より

頂いた園内マップ。5月のみどころ案内になってました。毎月違うんでしょうねさすが。

上の池、中の池、下の池と名付けられた大きな池を中心に造られた日本庭園です。

上の池

池の畔の茶室。

 

 

 

上の池から「旧御凉亭」の池に流れるせせらぎ。

「旧御凉亭」と庭園

 

旧御凉亭

御凉亭外観

 

 

御凉亭内部

 

 

 

御凉亭からの眺め

 

中の池

 

つつじ山

朴の木の花

ベニバナトチノキの花

下の池

 

 

モミジバスズカケノキ

株立ちの自然な姿の大木。

玉藻池

休憩所からの眺め。

この辺りに屋敷が在ったらしい。一番の眺めと思われる地点。

石灯籠のある所が中島。ミズキの白い花が見える部分が池最深部。

 

 

 

 

 

ミズキの花と花筏が綺麗。池の杭にとまる鵜がアクセント。

イギリス風景式庭園

この芝生地が遠足の思い出の場所。

 

大きなユリノキとその花

ヒマラヤ杉

敷地が広いから出来る樹形。こんな枝振りの樹が多い。

フランス式整形庭園

スズカケの並木。

外周部にバラが沢山植えられています。見頃はまだでしたが結構楽しめます。

(左) トランペッター (1977年、マグレガー・ニュージーランド)

(右) フリージア (1973年、コルデス・独)

(左) エーデルワイス (1970年、ポールゼン・デンマーク)

(右) カウンティーフェアー (1960年、スイム・米)

(左) インターナショナル ヘラルド トリビューン (1984年、ハークネス・英)

(右) ゴールド バニー (1978年、メイアン・仏)

(左) ゴールド クベレ (1965年、タンタウ・独)

(右) ムーンライト (1913年、ペンバートン・英)

(左) プレイボーイ (1976年、クッカー・英)

(右) プレイガール (1986年、ムーア・米)

園路にはつつじが花盛り。

誰もが楽しめる素敵な庭園でした。

 

新宿御苑の歴史(抜粋)

「新宿御苑の歴史が始まるのは、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591年)にさかのぼります。譜代の家臣内

藤二代目の清成は、多年の功労と江戸城西門警固の功績を認められ、現在の新宿に屋敷地を拝領しました。

家康は、清成に馬を走らせて回れるだけの土地を授けると言い、その結果、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大

久保にまでおよぶ広大な土地を賜ったと伝えられています。これが新宿御苑のルーツです。

石高 3万石余りの大名としてはもとより、江戸の中でも非常に大規模な賜邸であったことから、その所在の地名が「内藤町」

と命名されました。その後、七代内藤清枚(きよかず)の時に、領地を信濃に移され、3万3千石の高遠城主となりました。この

時上屋敷を神田小川町に賜り、御苑の地は下屋敷となり、いつのころからか「四谷荘」とよばれるようになりました。

高遠藩主内藤家の下屋敷は、のどかな田園風景そのままの庭園で、華麗な建造物などはありませんでしたが、地域の住民

とともに楽しむ憩いの庭として親しまれていたようです。なかでも玉川園(現在の玉藻池)は、江戸の名園のひとつに数えられ

ていました。元禄11年(1698年)に、幕府は内藤氏の広大な下屋敷の一部を返還させて、町屋とともに馬継ぎの施設を設

けて宿駅としました。これが甲州街道最初の宿駅で、内藤家の屋敷跡に新設された宿駅のため「内藤新宿」と呼ばれるよう

になりました。

明治 5年(1871年)には、日本の近代農業振興を目的とする内藤新宿試験場が設置され、その後、宮内庁移管の新宿植

物御苑となり、明治 39年には日本初の皇室庭園である新宿御苑が誕生しました。

広さ 58.3ヘクタール、周囲 3.5kmの園内には、イギリス風景式庭園、フランス式整形庭園、日本庭園をたくみに組み合わ

せられています。日本における近代西洋庭園の名園といわれ、特色あふれる様式の庭園が楽しめます。 

新宿御苑には、イギリス風景式庭園の旧洋館御休所、日本庭園の旧御凉亭など、皇室時代の歴史を今に遺す様々な歴史

建造物があります。」