東京都の庭園 1

殿ヶ谷戸庭園(東京都国分寺市) ’09年4月

「武蔵野の自然の地形、すなわち段丘の崖にできた谷を巧みに利用した「回遊式林泉庭園」。崖の上の明るい芝生地と崖下

の湧水池、樹林で雰囲気が一変する造園手法が見所。ここは、大正2年〜4年に江口定條(後の満鉄副総裁)の別荘として

整備され、昭和4年には三菱財閥の岩崎家の別邸となりました。昭和40年代の開発計画に対し本庭園を守る住民運動が

発端となり、昭和49年に都が買収し、整備後、有料庭園として開園。庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地

名であったことに由来します。」

ここの池の湧水は野川の湧水源の一つです。

芝生地。

竹林。

 

湧水源

 

池。

鹿おどし

 

紅葉亭

紅葉亭から池を眺める。

園内の一角には山野草園があります。

(左)シュンラン (右)ショウジョウバカマ

ムサシアブミ

(左)バイモ (右)ヤマシャクヤク

(左)エンレイソウ (右)カタクリ

ハナニラ

日立中央研究所

野川の主要な源流となる湧水のある庭園にも行って見ました。

国分寺の駅前は旗を持った団体で一杯。善光寺のご開帳を想わせる賑わいです。

途中のお団子屋さんも臨時営業で花より団子状態です。門の前迄人の列。

毎年4月と11月に一日だけ公開されています。去年は何れも雨模様でしたので今年は人手が多いようです。

入口で頂いた園内散策マップ。

殆ど手を加えていない原生林の中に研究所がありました。

 

池には白鳥が。

新緑の中、池の畔には雪柳、そして桜が満開。

 

 

大輪の椿も多く見られます。

園路には最近見られなくなった日本たんぽぽが咲き乱れています。

 

ここが野川の源流となる湧き水。

左が湧き出し口、右の流れになって池に流れ込む。

池から二つの水門を経て野川の本流となります。

これが流出口。

芝生の広場では家族連れがお花見。

 

更に野川の源流を訪ねてお鷹の道まで足を伸ばしてみました。

お鷹の道

 

湧水を集めて野川へとそそぎます。

 

 

 

湧水源

真姿の池

 

雑木林のみち

雑木林のみちを登ると公園に出ました。

武蔵国分寺公園

 

姿見の池

「姿見の池は、かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。その名の由来は、鎌倉時代、恋ヶ窪が

鎌倉街道の宿場町であった頃、 遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという言い伝えによります。また、この池は

「一葉松」の伝承の中にも登場します。源平争乱の頃、遊女の夙妻(あさづま)大夫と坂東武者で名将といわれた畠山重忠と

が恋に落ちました。ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいて、その男は重忠が平家との西国の戦で討ち死にしたと嘘

をつき、あきらめさせようとしましたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。

更に時代が下って、江戸時代に描かれた「江戸名所図会」に、このあたりの風景が道興准后の歌を添えて登場しますが、そ

の中に姿見の池らしきものが描かれています。

このような伝承に彩られた姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・

湧水復活再生事業費補助を受け、昔の池をイメージして整備しました。また、ほかに湿地、用水路、水辺林等を、周辺の東

京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」の雑木林等と一体になるよう整備し、かつての武蔵野の里山自然を回復し保全

してゆくものです。」

ここも野川の源流の一つ。武蔵野線の線路の向こう側なので写真だけ。疲れたので池までは行けませんでした。

 

小石川後楽園(東京都文京区後楽) ’09年3月

3月30日大名庭園を代表する一つ小石川後楽園に行って来ました。

寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩

主の光圀の代に完成した庭園。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)

天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名付けられました。

庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」で、随所に中国の名所の名前を付けた景観を配し、中国趣味豊かなものになって

います。また、各地の景勝を模した湖、山、川、田園などの景観が巧みに表現されています。

後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重

指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮とここの二つだけです。

入口からすぐの所に二本の八重桜が満開。この時期のハイライト。

 

 

小廬山

オカメザサで覆われた小高い丘。

山の上からの眺め。

西湖の堤

 

大堰川

右手に架かる橋は「渡月橋」。

 

 

 

通天橋

 

 

得任堂

 

 

 

 

円月橋

見事に満月になってます。

 

キバナイカリソウ

愛宕坂

 

立ち手水鉢

石段下から立ち上がっている手水鉢。2メートル以上の高さがあります。

八卦堂跡

 

 

 

園路

梅林を通って行くと。

右の方に礎石があります。

藤田東湖の記念碑

文化3年〜安政2年(1806年〜1855年)名は、はじめ武次郎、虎之介のち誠之進と称し、東湖と号した水戸藩士。儒臣藤

田幽谷の子。父の薫陶を受け、素読を堀川潜蔵に学ぶ。文政2年(1819年)豊田天功とはじめて江戸に遊学。大田錦城、

亀田鵬斎に文、岡田十松に剣術を学び、のち伊能一雲斎に宝蔵院流槍術を習う。文政7年、常陸(茨城県)大津浜に英船出

現、外人上陸の報に、父幽谷の命を奉じ、死を決して討とうとして駆けつけたが間に会わなかった。幽谷の死去にともない、

文政10年家督を相続し、進物番、史館編集に補せられ、禄二百石。安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心

配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母

親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50。墓所は水戸市松本町にある。なお藩邸

跡である後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板がある。藩邸跡に建立されていた記念碑は道路拡張の際に

小石川後楽園へと移されたとされます。

 

金魚椿

葉が金魚に似た形状のツバキの木。

タチツボスミレや馬酔木の花が咲いていました。

ムラサキケマン

右手が梅林。川の流れが玉川上水。

 

不老水

底に水が溜まってました。

藤棚、稲田、菖蒲田

池の畔を周るのも良さそうですが今回は山道を選んで散策。

園路から大泉水(大池)がここまではほとんど眺められない庭園設計となっています。山道を行くといった風情。

大泉水(大池)の外周をぐるっと半周して来た訳ですが、ここで松原に出て池が眺められるようになります。

九八屋

殿様も居酒屋に行きたかったんでしょうね。

遠州灯篭と異形灯篭。

門がありますが、名も無い門。

松原から蓬莱島を眺める。この時期松の木越しは似合わないでしょう。やっぱり桜。

舟遊びも楽しんだらしいので、蓬莱島には石段や石橋が架かっているのが見えます。

 

 

唐門跡

 

内庭

 

嵐山ならぬ東京ドームを借景に。これも良いかも。

 

 

 

富士見堂

 

 

木曽山

昼なお暗き木曽山中。深山幽谷の景。殿様、木曽まで行きたかったんですね。大名庭園には天下の名勝を模した庭が多い

です。どこにも行けない殿様の楽しみです。ちょっと可哀想。

白雲台跡

木曽山中からの展望台跡。両毛三山も見えたと言います。

蓬莱島

木曽山を抜けると、大泉水が眺められる。蓬莱島の徳大寺石が正面に。

大泉水は琵琶湖をイメージしたもの。竹生島もあります。

駐歩泉

 

 

 

 

 

昼時分となりました。神楽坂辺りで昼食をと散歩。

 

神楽坂通り

「旧江戸城の牛込御門を出て外堀通りに出たところが神楽坂下。そこから正面の「神楽坂通り」を上り、毘沙門天善国寺を

過ぎ、大久保通りを越えて地下鉄神楽坂駅あたりまでの一帯が、いわゆる「神楽坂」と呼ばれる界隈。坂の名前の由来につ

いては、「若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから」など諸説ある。」

 

軽子坂

「神楽坂通りの北東側を並行する坂。鎌倉時代に武蔵国府中と下総国国府台の両国府をむすぶ道として整備されたもの

で、神楽坂通りより古い歴史を有する。江戸時代には、神楽河岸で荷揚げされた米などの荷を軽籠(かるこ)を背負って運搬

する人夫達(軽子)がこの地に多く住み往き交っていた。坂の名はこのことに由来する。」

仲通りを過ぎてかくれんぼ横丁の辺りにはフレンチやスペイン料理のお店が数軒並んでいてなんとなく美味しそう。

 

芸者新道

「明治時代にできた道で、以前は「ロクハチ」(宴席の始まる夜の6時と8時のこと)ともなると、お座敷に出る御姐さん達が一刻

を争って近道に利用した。この通りの東端は傾斜が急になっているが、これがかつての神楽坂通りとほぼ同じ傾斜。」

 

仲通り

おそば屋の「練り屋文楽」さんでランチを頂く。そばとトロロにご飯、小鉢も付けて950円でした。お腹は結構いっぱいに成り

ました。神楽坂は和食のお店でランチが1000円程度、洋食系で1500円程度のようです。手頃なお値段かも。もちろんビジ

ネスマンにはちょっとお高め。

 

かくれんぼ横丁

「最も「神楽坂らしい」雰囲気を保っている路地のひとつ。石畳や黒塀、さりげないけれど趣向を凝らした建築などを味わいな

がらのまち歩きは、神楽坂ならではのもの。」

写真右の「千」さんは料亭のようです。ぐるなびを見ると、お昼の和食膳で 2000円〜3000円。夜は 10000円位みたいで

す。ちょっとお高め。

 

 

兵庫横町

「これも神楽坂の代表的な石畳の路地で、元は3尺程度の幅であった。料亭のほか、著名作家たちが逗留して執筆活動を行

うことから、「ホン書き旅館」として知られる「和可菜」などがある。」

「幸本」さんはお品書きを貰って来ましたが、お得な一日3組限定コースで10000円でした。美人の女将と芸者衆となると手

が出ませんね。神楽坂界隈は敷居の高そうなお店が並んでいますし、黒板塀で中が見え無いお店も多いのですが、店前に

お店のご案内やメニュー板を出していますので入り易そう。

この縄暖簾に簾、伊勢屋さんは、口コミによれば一杯飲屋さんのようです。昭和の匂いがぷんぷん漂って来ます。

企業戦士が一日の疲れとウサをはらす憩いの場所のようです。だから若いカップルや現役リタイヤの夫婦には向かないよう

ですね。もうそんな元気も無いかな。昭和も遠くなりにけり、寂しい限り。

 

右上の「カフェクレープリー・ル・ブルターニュ」さんは行列が出来ていました。ガレットが売りらしいのですが、

ランチで1500円〜1700円位のようで一度食べてみたいな。

 

本多横町

「名称はこの横丁の東側にあった徳川家家老「本多対馬守」屋敷に由来する。一時「すずらん通り」と呼ばれたが、昭和50年

ごろに戻された。両側には寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び「芸者新道」、「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やか

な坂である。」

 

三年坂

「本多横丁を含み、筑土八幡神社へ至る緩やかな坂。堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かった際、ここを駆け抜けたとも

言われる。名の由来は、寺や墓地に囲まれた静寂な場所でつまずくと三年のうちに死ぬ、死なないためには三度土を舐めよ

と言われた俗信による。」

 

毘沙門天(善国寺)

「江戸中期の寛政4年(1792年)に移転してきた日蓮宗池上本門寺の末寺で、神楽坂の中心として親しまれて続けている。

江戸時代から後々まで、境内にある毘沙門天(寅の日)と出世稲荷(午の日)の2つの縁日で賑わい、年に4回寅の日に本尊

の毘沙門天像(区文化財)が開帳(一般公開)される。新宿七福神のひとつ。」

 

大手門通り

「毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の通りは、中世に築かれた牛込城の大手門(正門)に通じていた。明治時代には「松が

枝」(現在はマンションになっている)という神楽坂で一番大きな料亭ができ、昭和時代には大物政治家の出入りも頻繁であっ

た。この通りの枝道の突き当たりに見える擁壁は牛込城本丸の土塁の跡であり、今でも湧き水がしみ出している。」

この通りにはトルコ料理のお店「トルコレストラン ソフラ」さんがありました。ぐるなびにも掲載していますが、夜のコースは

5000円位からのようです。毎晩ベリーダンスショウがあるらしい。ショウチャージは無しと書いてありました。

ランチは1000円らしい。

 

わらだな横丁

 

地蔵坂

 

光照寺(牛込城跡)

「旧牛込城本丸跡地にあり、牛込氏が家光によって移封された後、1645年に神田から移転した。出羽国(秋田・山形地方)松

山藩主酒井家の歴代藩主一族の墓、神田松永町旅籠屋紀伊国屋利八が、その旅籠に逗留中に倒れ亡くなった人々を弔っ

た諸国旅人供養碑(1825年)などがある。」

 

 

小栗横町

「小栗という姓の武家屋敷が、この通りの両端にあったことから小栗横丁と呼ばれた。かつては片側(北側)に幅一尺ほどの

小川が流れており、この地に湧水が豊かであったことの証である。通りの中程に銭湯・熱海湯があることから「熱海湯通り」と

も呼ばれる。」

「熱海湯」と熱海湯前からアグネスホテルに抜ける坂道。

 

神楽坂若宮八幡宮

「源頼朝が東北の藤原氏と義経討伐の折この地で下馬し祈願したとされ、奥州平定後、この地に鎌倉の鶴岡八幡宮の御神

体を勧請した。仁徳天皇、応神天皇を祭神とする由緒ある社で、かつては周辺の高台すべてを境内としていた。」

 

市谷の駅まで法政大学、逓信病院横の土手を歩く。桜と菜の花、総武線電車とお堀の向こうに東京理科大学の校舎、ちい

散歩風の景色。出来すぎだね。

 

池上本門寺松濤園(東京都大田区池上) ’08年9月

東京都旧跡(昭和11年指定) 池泉回遊式庭園 敷地約4千坪

近年、大改修工事と整備事業が行われ平成3年5月に修復完成。

池上本門寺旧本坊の奥庭で、自然の窪地に作庭され、本坊客殿から俯瞰できるという景観が特徴。池泉は豊富な地下水か

らの湧き水による。作庭者は、小堀遠州と伝えられる。

 大きな池に洲浜、織部井戸、船付場、鶴島、亀島、魚見岩、太鼓橋などを配し、滝口に向かって渓流と渓谷、沢渡り、滝見

橋、松濤の滝などが造られている。深山幽谷を思わせる、静寂かつ悠々とした雰囲気が見所。

 桃山期から江戸初期は、池上本門寺の大復興期にあたり、日惺・日詔・日樹・日遠・日東各聖人らが、加藤清正公親子、

徳川家康公側室養珠院(お万の方)、徳川秀忠公乳母正心院(岡部の局)、紀州徳川家、加賀前田家、等の外護、帰依を得

て大伽藍が再建され、境内も整備された時期で、そうした重要な時期に作庭されたものと言います。

朗峰会館より池の全景を眺める。

雪見灯篭のある部分が州浜と思われる。中央部の水が流れ出している場所が織部井戸、中央左向こう岸の石段が船付場

でしょう。

全景写真の対岸中央右の石灯籠、その右手に石橋がある。石橋の下から、池の水が流れ出している。

太鼓橋から見る眺め。松の生えている中島が亀島。左の大石は亀の頭にも見えるんですが水位の関係もありますが水没し

て繋がっていません。中島は一島しか有りませんのでその左手の大石が鶴島かな。

石の狸と船着場の間辺りから見る亀島。

太鼓橋

太鼓橋は池に架かっている橋です。

石灯籠

太鼓橋を渡った先の上り坂にある巨大な燈篭。

魚見岩

 

 

 

茶室に通じる石段と石垣。

 

 

 

鈍庵の入口門

入口からの通路は石敷きとなっています。文様がお洒落。

茶室付近にある茶筅塚。

池の水の流出口。飛石が組まれていて渡れる。

ここには石橋があるんですが、茶室「鈍庵」と「根庵」の間に飛石が組まれているので行き来できる様になっているのかも。

右手に「根庵」があります。「鈍庵」と同じく裏千家から寄贈され移築したものだそうです。お茶席が設けられていました。

「大運庵」と名付けられた茶室とあわせて「運、鈍、根」の組み合わせとしたのだそうですが、「大運庵」は現在無いようです。

 

(左)石の狸 (右)船着場

 

織部井戸

織部井戸らしいんですが園内案内には何も書いてありません。飛石伝いに水が汲めるようになっています。

以上で池を一回りした事になります。自然の窪地に作庭され、本坊客殿から俯瞰できるという景観が特徴と言いますが客殿

位置がはっきりしませんので客殿からの眺めが今一つ理解出来ず残念。あまり大きな庭園ではありませんので、樹木の剪

定が綺麗になされていれば、滝口に向かっての渓流と渓谷が見渡せると思うのですが、緑が厚すぎて森になってしまってい

ます。松の剪定もされていれば、池廻りの各所からの眺めがもっと良いはず。

 

深山幽谷の美は太鼓橋からの上りに見られます。

太鼓橋から見る沢の景観。

上りの途中あちこちから沢の景色が眺められる。この景観が最大の見所。深山幽谷の風情が伝わってきます。

(左)沢渡りの石。 (右)沢渡りから上を眺める。一枚岩の滝見橋が見える。

滝見橋とその上の滝口。現在は枯れ滝ですが、湧水を引いて水が流れていたかは不明。

沢の外周路。左上に茶室「松月亭」がある。右が「松月亭」で沢とは別の水路が右手にある。

沢に下る石段。随所に石段、石畳があり下ると沢が鑑賞できる。

茶室「松月亭」

庭の西の小高い見晴しの良い場所に建てられたあずま屋で、茶会では立札席として使用される。

「松月亭」前から上り坂に通じる飛石とその先の石畳。

園路は石畳、一部飛石となっています。泥んこにならず良いのですが、雨の日は滑るかも。作庭当初からこの形式の園路か

どうかは不明ですが歩きやすい。

 

茶室「浄庵」

平成4年4月に完成した茶室で、庭園の一番高い所にあり、西郷、勝の会見したあずま屋のあった跡に建てたもの。法華思

想である「水」にちなみ「浄庵」と命名されたそうです。

慶応4年3月幕府西郷隆盛と勝海舟がこの地で会見し、 江戸城開城の交渉を行ったと伝えられています。会見場となった園

内のあずまやは現在は無く、石碑が建てられています。 本門寺には、 新政府軍の本陣が置かれていました。

 

 

 

 

この辺りは大木が多く見られます。

境内を散策。

朗峰会館

この奥に松涛園がある。

 

五重塔 (重要文化財)

空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の一つで、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(正心院日幸尼)

の発願により、慶長13年(1608年)に建立された。全面ベンガラ塗り、建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様で。

高さ29メートル。

 

 

 

 

墓地には

市川小団次、市川左団次、片岡仁左衛門、松本幸四郎、永田雅一、溝口健二、市川雷蔵、栗島すみ子、花柳章太郎、中

村八大、横綱初代梅ヶ谷、横綱2代目梅ヶ谷、力道山、田村魚菜、大野伴睦、児玉誉士夫(敬称略)

などのお墓がある。

片岡仁左衛門のお墓

左大野伴睦、右力道山のお墓。

鐘楼

左の鐘が当初の名鐘。

(左)仁王門 (右)大堂

総門から石段を見る。

見応えのある素晴らしい庭でした。

いつもこの8月末〜9月初旬に公開されるそうですが、紅葉時期や落葉後に鑑賞して見たいものです。クイズに挑戦してまた

来ます。

大名庭園を数多く見るならお江戸東京。比較的馴染みの無い新江戸川公園から始めました。

新江戸川公園(東京都文京区目白台) 付:関口芭蕉庵 ’08年5月

細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地を活かし、変

化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは遣水(やりみず)の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い

流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心として広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背

後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一

群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出すそうです。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のよう。所々に開け

た空き地があり、ベンチが置かれています。もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっ

ていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となったと言います。入口にある建物は、松声閣と呼ばれ元細川

家の学問所だった建物で、大正時代の建造物です。

斜面の上が細川家下屋敷跡で永青文庫になっています。

 

 

松声閣からの眺め。

遣水(やりみず)

湧水を利用した滝口から流れ出る水を利用している。

池に流れ込む途中の芝生地。大半雑草かもしれません。南京アヤメ、タンポポなど生えてました。

毎年11月下旬に、池畔にある 5本の松の枝を都会の水分を多く含んだ重い雪から守るため、わら縄で枝を吊る作業を行っ

ているのだそうできれいな傘形に張られた縄が見事だそうです。

雪吊りは暖かい地方では鑑賞を目的とした修景物として用いられるため、「化粧雪吊り」手法を用いているのだそうです。軸

となる帆柱の頭には、留め飾りとして、藁の穂で編んだ「藁ボッチ」をかぶせ、下方の枝には、「バチ」と呼ばれるかんざし状

の竹を、何本か適当な間隔で設置します。そのバチに棕櫚縄(しゅろなわ)をぐるりと配して「ぶち」をつくり、その「ぶち」に吊

り縄を吊る手法です。外周に沿って結ぶ場合、外周を直線の組み合わせとするもの(江戸川区平成庭園など)と割竹でつくっ

た輪の形にするもの(新江戸川公園)などがあるそうで、都内の庭園でも冬場、結構見られるようですから見て廻るのも面白

そう。今後のテーマの一つにしようかな。

この手法は、円錐形の美が特徴で支柱上の一点から放射状に下がる縄の描く傘型の美しさを鑑賞するために、枝の外周に

沿って結ぶ手法を取るのだそうで、これがこの大名庭園の見所かもしれません。

雪吊りには「りんご吊り」「幹吊り」「竹又吊り」「しぼり」の 4種類の手法があるんだそうです。兼六園など雪国で行われる雪吊

りは、機能を重視した手法いわゆるりんご吊りと呼ばれるもので、雪による枝折れを防ぐため目的の枝に縄を直接結びつけ

る手法で見た目も華麗ですね。

 

永青文庫

熊本五十四万石、細川家の江戸下屋敷跡。細川家伝来の文化財を収蔵し、展示公開を行っています。

 

 

関口芭蕉庵

新江戸川公園の隣りの松尾芭蕉が 3年間住んだとされる文京区関口の芭蕉庵を訪ねました。

胸突坂の途中に入口はありますが看板も無く通り過ぎてしまいます。

松尾芭蕉が、2度目の江戸入りの後、延宝 5年(1677年)から3年間この地に住んだとされる場所。当時、旧主筋の藤堂家

が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれに携わり、工事現場か水番屋に住んだといわれる。後に芭蕉を慕う人々

により「龍隠庵」(りゅうげあん)という家を建てたが、これが現在の芭蕉庵につながるも、建物はその後焼失し、現在の建物

は第二次大戦後の建築。下は文京区の説明版。

関口芭蕉庵は現在講談社・光文社・キングレコードなどを中心に設立された「関口芭蕉庵保存会」が維持管理しているそうで

すが、ことに入口の案内も無くひっそりと公開されています。

神田川に面した正門はいつも閉じられているそうです。

正門は神田川左手前、後方の建物は椿山荘。

神田川を渡って胸突坂を上る手前に入口がありました。写真の道案内の標識のあるところが入口。道案内の標識は関口芭

蕉庵の入口案内ではありません。木戸を開けて建物の玄関でここが関口芭蕉庵ですかと確かめて入りました。

一般の人は来ないですよ。平日でしたが、見学者は私達だけでした。

写真左の屋根は水神社(すいじんじゃ)。

 

芭蕉堂

さみだれ塚

長谷川馬光ら俳人が「五月雨塚」を築いた。ここには、芭蕉の真筆 「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 」を埋めて墓とした

そうです。

 

伊藤松宇句碑

 

 

 

 

 

水神社(すいじんじゃ)

芭蕉庵入口の向かい側にある水神を祀る神社。