東京都

高幡不動 (東京都日野市)

’10年6月29日、梅雨空、高幡不動尊にアジサイを見に出かける。梅雨空にアジサイは似合いそうと言う理由だけの気まぐれで

す。駅を降りるとすぐに参道。七夕の準備の真っ最中です。

参道は大した距離ではありませんが右左に横丁が有り奥は深そう。

地元の子供達が願い事を書いた短冊を笹の葉に付けていました。

 

高幡不動尊金剛寺

「真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草

創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代

初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置し

たのに始まる。のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)

麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されてい

る。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十

一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であっ

たが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。その後、歴代住持の営々たる努力に

より徐々に復興に向ったが殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊・奥殿等の工事が相継ぎ往時を凌ぐ程の

寺観を呈するようになった。

総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は此の度千年ぶりの修復作業が完了し現在奥殿にご

安置されている。」 お寺のHPより

仁王門 (重要文化財)

 

 

仁王像

 

不動堂 (重要文化財)

 

 

 

五重塔

「満5年の歳月をかけて竣工した五重塔は、塔高39.8m、総高45m、和様、三手先出組、青銅瓦葺、平安初期の様式を模した美しい

塔です。」 お寺のHPより

五重塔の下は石垣を隔てて石畳の広場から、アジサイが眺められる様になっています。

石畳に水溜りが出来て土手のアジサイが映って綺麗。池の水面にとは違った風情があります。

山門

「大日堂正面の四脚門は山門と呼ばれています。扁額「十善ノ花開ク處」は、伊東祐享元帥の筆です。」 お寺のHPより

五部権現社殿

「源頼義勧請の八幡大菩薩を中心に五神が合祀されており火傷除の信仰が伝 わっています。神牌五基は暦応三年の銘があり重

要美術品に指定され本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)のよい資料です。」 お寺のHPより

 

鞘堂内にあります。

大日堂

「大日党大日堂は高幡山の総本堂で平安時代の大日如来像及び諸佛を安置する御堂です。江戸時代安永八年の大火で焼失し、

長く仮本堂のままでしたが昭和五十七年から五年の歳月をかけて根本改修工事が行われました。新堂は鎌倉時代様式で入母屋

造り、本瓦葺・内陣総漆仕上で材は尾州檜が使われています。又大玄関は桃山時代様式です。有名な鳴り龍天井や優れた彫刻

群、幽玄な内陣荘厳のほか後藤純男画伯の大作襖絵「桂林山水朝陽夕粧」の鑑賞ができます」 お寺のHPより

豊泉寮

「八王子の豪商、豊泉吉兵衛翁・かつ子夫人の寄進になる重厚な建築で、茶席「緑豊軒」「汲泉亭」として利用されています。」

 お寺のHPより (HPでは、非公開となっていますが外観は見られました)

 

伊豆の華

水琴窟

知足庵

「数寄屋造りの知足庵、書院造りの寂斉が設けられています。」 お寺のHPより 

(HPでは、非公開となっていますが外観は見られました)

 

 

心字池

 お寺のHPでは非公開となっていますが見られました

 

鐘楼

弁天堂

「ご縁日は毎月15日。弁天池の島に建つ朱塗りの小堂で、福徳弁財天を祀っています。」 お寺のHPより

鞘堂内にあります。

 

(左)土方歳三像 

(右)新選組両雄の碑

「この碑は新選組の近藤勇・土方歳三の事績を記したものです。文の選者はもと仙台藩の儒者大槻磐渓、筆者派もと幕府典医頭・

医学所長松本順で、篆額はもと会津藩主・京都守護職松平容保が書いたものです。明治9年4月、時の金剛寺住職賢雅大僧正が

佐藤俊正・糟谷良順・土方義弘。本田定年・橋本政直・近藤勇五郎・小島為政等とはかり両志士の殉節を顕彰し、冥福を祈る

ために建碑を計画し、明治21年7月にいたり竣工したものです。」 お寺のHPより

句碑が境内には数多く見られます。

鍵和田秞子句碑

「未来図は 直線多し 早稲の花」

芭蕉句碑

弁天池畔に立つ

「名月に ふもとの霧や 田のくもり」

山口誓子句碑

「如来出て  掌に受け給ふ  枝垂梅」

菫糸句碑

石田波郷句碑

「濃あじさゐ 吾らが病みし 日も遠し」

 

あじさい園

五重塔の横手からアジサイの散策路になっています。

舞妓あじさい

やまあじさいを中心にした素朴な感じのあじさい園です。

途中2ヶ所程小路を入って眺めるやまあじさい園があります。人がすれ違うのがやっとの細い道で風情があります。残念ながら

やまあじさいの花期は終わってしまっていましたが、残り花を観賞。

桃花やまあじさい

みやま八重むらさき

やまあじさい綾

秋篠てまり

 

花笠

やまあじさい土佐の暁

八重咲あまちゃ

なでしこがくあじさい

あじさいの散策路は札所巡りが出来るようになっていました。四国八十八ヶ所の写しだそうです。

 

 

 

堀切菖蒲園・葛飾柴又 (東京都葛飾区)

NHKテレビのお散歩番組で堀切菖蒲園まもなく花菖蒲の開花とやっていましたので、開花情報を調べて見ると2分咲きとの事。

’10年、6月3日、今日は天気も良いので花菖蒲を鑑賞に。下町は馴染み薄の事とて、ついでに柴又の帝釈天にお参りと洒落込

む事に。

京成本線、堀切菖蒲園駅から緑道を歩けば一本道で菖蒲園に出ました。道は解り易く迷う事はなさそう。

 

堀切菖蒲園

「堀切の花菖蒲(ハナショウブ)は江戸名所の一つとして古くから知られており、その景観は安藤広重や歌川豊国らの錦絵の題材

にもなりました。菖蒲園は文化年間(1804〜1817)当地の農民、伊左衛門によって栽培されたのが始まりと伝えられ、花の種類

も約2百種6千株に及びます。江戸時代の有様をしのびながら、数多くの江戸花菖蒲を鑑賞できるのが本園の特色の一つです。花

の見頃は、6月中旬で、特に早朝や雨の日にしっとりとぬれた花菖蒲は情緒のあるものです。また、園内には会食などのできる静

観亭もあります」 葛飾おでかけガイドより

上を首都高が走り、ちょっと変わった風景です。これが今風下町の風景。

菖蒲田には一番から順に番号が振ってあります。株の植え付けからの年数がそれぞれ違うようです。花菖蒲の品種による区分け

ではないようでした。株の植え付けから3年で植え替えらしい。

花の名前の下に江戸と書かれているのが江戸花菖蒲の様です。肥後、野生種などの表記が見られます。作出地なんでしょうね。

 

一番田

 

 

二番田

2年目の田んぼ。

鶴の毛衣

 

堀切の夢

 

金鶏

 

三番田

 

十二単衣

 

 

四番田

3年目の株で今年植替だそうです。

雪国

 

平成千鳥

 

 

初霜

 

長良川

 

鳳凰冠

 

 

 

夢野の鹿

 

縞菖蒲

 

潮来の夢

 

鶴じゃく楼

 

小桜姫

 

宇宙

 

霓の巴

 

 

五番田

2年目の田んぼです。

追風

 

 

水の光

 

富沢

 

堀切の夢

 

夜明け前

 

沖津白波

 

翠映

藍草紙

 

町娘

 

滋賀の浦波

 

 

六番田

1年目の田んぼです。

日の出鶴

 

鶴じゃく楼

 

雪国

 

翳扇

 

剣の舞

 

早生万里

 

蛇の目傘

 

 

七番田

2年目の田んぼです。

千歳

 

濡燕

 

蒲生川

 

燭光錦

 

紅紅葉

 

白花野花菖蒲

 

 

 

花月夜

 

古照田

 

鬼ヶ島

 

 

八番田

鳴海絞

 

 

九番田

1年目の田んぼです。

猿踊

 

十二単衣

 

日本海

 

夏姿

 

波乗船

 

 

日の出鶴

 

 

十番田

2年目の田んぼです。

金鶏

 

雪国

 

十一番田

3年目の田んぼで今年植替えだそうです。

 

十二番田

三筋の?

 

桃花仙

 

夕日潟

 

 

十三番田

妹背川

 

 

十四番田

迦陵嚬伽

 

日の出鶴

 

妙義の森

 

蝦夷紫

 

葵祭

 

紅葉の滝

 

亀の井

 

美吉野

 

愛知の輝

 

鳴海潟

 

夢野の鹿

 

 

十五番田

涼夕

 

誰待花

 

桃児童

 

カメラを向ける人が一杯。年配者が圧倒的に多い。平日だもんね。

この位の咲き具合が一輪ずつカメラに収めるには最適かもしれません。

丁度昼時、駅前に戻り、ビストロKanaでランチ。グリーンアスパラとナスのぺペロンチーノを頂く。

「ランチパスタは1000円で5品程度の盛り合わせオードブルからデザート、ドリンクが付いてきて大変お得でおいしいです。」とヤフ

ーグルメに書き込みがあったので入りましたがほぼクチコミ通りかも。

 

葛飾柴又

京成金町線で柴又駅に。3駅だけのローカル電車、風情たっぷりの車輌です。

柴又駅前には寅さんの銅像もありました。

程なく帝釈天参道の看板が見えてきます。つい先日NHK第一の「生中継 ふるさと一番」で市毛良枝さんが紹介してました。

 

寅さんが出番待ちに使っていたと言う「高木屋」さん。

寅さんの実家のロケに使われた「とらや」さん。今も実家に帰ってきた寅さんが上がってゆく階段が残されているそうです。

手焼きのお煎餅屋さん。店の奥でお煎餅を手焼きしています。

川魚料理、鰻の蒲焼のお店も多いです。

 

帝釈天

「江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院

である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるよ

うになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。

近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われ

た。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるよ

うになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこと

もあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。

「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の

隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を

書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見さ

れるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多

聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。」 ウィキペディアより

 

正面に二天門が見えて来ました。

「明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫

りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は

平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである」 ウィキペディアより

欅の一枚板に彫刻が施してあります。

 

 

 

浄行菩薩

御神水

帝釈堂

「二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶり

の千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四

天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾

彫刻が施されている。」 ウィキペディアより

本堂前の端龍松が立派。

右手前が本堂、右奥が大客殿。

大客殿

「本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっ

ている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置

する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自

然木を使用したものである。」 ウィキペディアより

本堂

「帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の

本堂であり、本尊は大曼荼羅である。」 ウィキペディアより

釈迦堂

「江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置す

る。」 ウィキペディアより

大鐘楼

邃渓園

「大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されている

が、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。」 ウィキペディアより

 

 

山本亭

「建物は木造2階建て(1階120坪、2階15坪、地下防空壕、土蔵、長屋門)で、庭園は270坪で縁先の近くには池泉を、背後には緑

濃い植え込みと築山を設けて滝を落とすという典型的な書院庭園です。

昭和初期における庭園様式を現在まで残した稀有の例で、同様の例は旧安田邸、徳富邸があります。

滝は池の最も遠い部分の入江奥に設けられ、庭園に奥行の深さと心地好い滝の音を作り出しています。

また限られた池水面をより広く見せる手法として、池の諸方向に入江を設け、池岸を多様に変化せしめています」

裏門

長屋門

詰所の内部のステンドグラス。

 

正面玄関

 

喫茶部入口。

庭園

寅さん記念館屋上の「柴又公園」

見晴台から建設中の東京スカイツリーが見えます。

 

反対側に目を向けると、江戸川が一望。

 

矢切の渡し

「矢切の地名は、江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川をはさむ矢切と東京都葛飾区柴又を結んでお

り、現在も渡し舟が運行されている。渡船の料金は大人100円、子供・自転車各50円(2010年現在)。矢切の渡しと柴又帝釈天界隈

は、環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。

この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途

に設けられたものではない。かつては官営だったが、その後民営となり、代々個人により運営されている。

この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。現在、矢

切にこの小説の文学碑が建立されている。 また、矢切の対岸柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリーズの作中にも、しばし

ば登場する。

現在はほぼ観光用途のために存在するが、元が渡し舟だったため、渡し場に多少の土産物屋がある程度で、特に観光化されてい

るわけではない。このため繁忙期や風の強い日などは、モーターで運行される。なお矢切側の公共交通機関がやや遠いため、多く

の乗客は柴又側から乗船し、往復利用している。」 ウィキペディアより

左手前の木立の辺りに渡し場があります。対岸の渡し場は一番右手。

 

 

帰り道、高木屋さんに入り、名物草団子を頂く。

 

 

金町に出て、地下鉄千代田線で帰路に。

 

谷根千散歩 (東京都文京区、台東区)

’09年7月29日所謂、谷根千と呼ばれる谷中、根津、千駄木辺りを散策に。

先ずは千代田線西日暮里駅で下車、駅に沿って道灌山を登る。

道灌山

小さな公園がありました。説明看板がやたら多い公園です。

この寺町辺りはひぐらしの里と呼ばれていたらしいと解りました。

 

 

 

 

現況はこんな感じです。向かい側は秋田藩佐竹氏の下屋敷跡だそうです。

 

公園入り口に散策路の案内板が立っていました。ここから真直ぐ谷中霊園まで歩くのが「谷中コース」のようです。

途中のお寺などの見所も記載されていますので、先ずはこのコースを歩くことに。

公園を出てあまり大きな道ではありませんが歩を進めると諏訪神社に出ます。

 

諏訪神社

町火消し「れ組」奉納の鳥居があります。

 

戸が閉まっていて見られませんでした。

諏訪のわにはごんべんがありません。

 

浄光寺

江戸六地蔵

荒川区有形文化財の銅造りの地蔵尊。

道路改良の為に移動して来たらしい庚申塔や、よく見かける六地蔵さんもあります。

 

富士見坂

現在でも富士山を望める数少ない富士見坂だけに案内板が親切に立っています。

生憎の曇り空で富士山は見えませんでした。

墓地の塔婆と高層ビルの取合せも洒落たもの。

 

養福寺

仁王門

 

 

中央に梅翁花樽碑、左に雪の碑、右に月の碑が建っている。数多くの句が刻まれています。

梅翁花樽碑

雪の碑

月の碑

通り沿いには、江戸指物のお店などがあります。衝立の素晴らしいのが飾ってありました。

細かい細工がとても見事。江戸職人の技ですね。

 

日暮里駅から谷中銀座商店街に向かう道との交差点にある経王寺。

経王寺

山門

彰義隊士をかくまった為、新政府軍に攻撃を受けた銃弾の痕が点々と残る山門の扉。

 

朝倉彫塑館

国名勝、国登録有形文化財。休館中。

 

 

奥に小料理屋が建ち並ぶ小路。一番奥の左に共同トイレがあります。

吉川錻力店。ブリキと読むんですね。ブリキとかトタン、懐かしい言葉です。もう忘れてました。屋号を頑なに守り続ける下町職人の

心意気が感じられます。

竹細工のお店。

 

観音寺

 

四十七士慰霊塔

築地塀

観光名所の目玉らしい。写真を撮る人がちらほらと見受けられます。

 

築地塀に黒日傘。典型的な下町風景。

 

鶯の初音にちなんで付けられた旧町名。鶯谷に初音町。粋な名前です。

台東区「まちかど賞」の家。景観形成に寄与した建物等に与えられる賞らしい。

確かに風情がありますね。

谷中コースは寺町をさらに先に進むのですが丁度昼時となったので、道を戻って谷中銀座商店街に立ち寄り。

外人観光客も目立ちます。

ゆう焼けだんだん

階段上から谷中銀座を見下ろす風景は谷中関連の雑誌や番組にしばしば登場するので有名。夕焼けの絶景スポットにもなってい

る。階段の下には「谷中ぎんざ」と書かれたゲートがある。

階段下からの写真。ミニのお嬢さんに睨まれそうなのでちょっと控えめに。

 

 

メンチカツでお馴染み「肉のサトー」さん。有名人の色紙だらけ。

突き当たると「よみせ通り」に出ます。

不忍通りに出て団子坂を登ります。

団子坂上の交差点を左に曲がると、藪下通りに入ります。

 

森鴎外の観潮楼跡。休館中。

鴎外の名作「舞姫」にちなんで舞をテーマとした彫刻だそうです。森鴎外の観潮楼跡の向かい側にあります。

 

藪下通りを先に進むと右手に階段が現れます。

おばけのだんだん

上り詰めた先を左に入ると、

もっとおばけの出そうな階段が。

 

藪下通りに戻り先に進むと、日本医科大学病院の脇を通って、医大前の大通りに。

 

通りの向かい側の老舗のお蕎麦屋さん「夢境庵」で天ざるを頂く。美味しかったです。ただ気軽に入りたい下町のお店としては全体

的に価格設定が強気に思われます。でも女主人から揚げ玉を頂いちゃったので ’ナンモイエネー '。

 

腹も膨れたのですぐ下の根津神社にお参り。

根津神社

都内随一のつつじの名所。

「根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を

奉建している。江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。

明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。

*宝永二年五大将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普

請と言われる大造営を行なった。翌年(1706)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国

の重要文化財に指定されている。」 神社のHPの由緒から

唐門 (重要文化財)

透塀 (重要文化財)

社殿など大きな修理が行われているようでシートが掛けられて見られません。

左神楽殿

乙女稲荷

つつじ苑

 

 

神社の横を登る坂道。

 

根津駅から千代田線に乗り帰途に。