2010 1月 南仏〜モンサンミッシェル〜パリの旅
その2 リヨン、ロワール、モン・サン・ミッシェルそしてパリ
23日
リヨンからブールジュへ300キロのバスの旅。
ヤドリギの宿る木々が目立ちます。
プラタナスの大木の並木道をバスは進み、羊が放牧されています。のどかな郊外の風景、そしてブールジュに。
サン・テティエンヌ大聖堂
「主に12世紀末から13世紀末にかけて建造された司教座聖堂である。これは、フランスにおけるゴシック美術の傑作のひとつであ
り、その設計、ティンパヌム、彫刻、ステンドグラスはいずれも特筆すべきものである。その規模とコンセプトの統一性が織りなす美
しさは中世フランスにおけるキリスト教の強大さを示してくれる。その先駆的なスタイルはゴシック建築の中でも例外的な存在であ
る。長い間正当に評価されてきたとはいえないが、この大聖堂は、ランス大聖堂、シャルトル大聖堂、ノートルダム・ド・パリなどにも
ひけをとるものではない。1992年に「ブールジュ大聖堂」の名で、ユネスコの世界遺産に登録された。
1195年にブールジュ大司教アンリ・ド・シュリは、ブールジュ司教座聖堂の教会参事会に贈り物をした。これが、ブールジュに11世
紀から12世紀のいささか小さなロマネスク様式の聖堂にかえて新しい大聖堂を建てることの出発点となった。これ以前にあった教
会堂について多くは分かっていない。
ブールジュは古代ローマ都市アワリクムであった時に、ガリア最初のキリスト教共同体を抱えた。その3世紀以降、キリスト教文化
の中心が存在したということである。それは現在の大聖堂の敷地に建てられていった4つの建物に引き継がれた。最初のものは3
世紀に聖ユルサン (St. Ursin) によって立てられた地下礼拝堂、次がブールジュ大司教聖パレ (St. Palais) による4世紀のもの、そ
して同大司教ラウル・ド・チュレンヌ (Raoul de Turenne) による9世紀のもの、最後がフランス王ロベール2世の弟であったブールジ
ュ大司教ゴズランによる11世紀初頭のロマネスク様式の聖堂である。
ブールジュは1100年頃にはフランス王領の都市であり、王領の南端に位置していた。それはまた当時イングランド領だったアキテ
ーヌ地方からわずかのところでもあった。ブールジュの大司教には同時に「アキテーヌ首座大司教」の肩書きと権威が与えられてい
たが、これにはしばしば異議が唱えられた。
さて、現存するブールジュ大聖堂はロワール川以南で建てられた初のゴシック建築物であり、フランス王や大司教の威厳を示す上
で重要なものだったと考えられている。当時は王領でなかった南仏に面するフランス王領最前線という意味で、大聖堂は唯一の存
在であることが求められたのである。ゆえにノートルダム・ド・パリにも比肩しうる大規模建築の実現・推進が決定されたのである。
1195年以降に建設が計画され、1214年に建物の半分が完成した。新しい大聖堂の設計は単純だが調和的なものであり、身廊を
囲む礼拝堂を持つバシリカ式を採った。この新たな大聖堂で目を惹くのは、側壁と内部空間の統一性だった。最初、大司教シュリ
はノートルダム・ド・パリに触発されていたようだが、彼は1199年に歿した。跡を継いだ大司教ギヨーム・ド・ダンジョン(元シトー会修
道院長)は、建築内容の発展とイコンの計画決定で重要な役割を果たした。1209年にダンジョンが歿すると、すぐに列聖式が行わ
れ、信者や巡礼者たちから寄付が殺到した。
10年ほど中断したのち、第二期工事が1225年に始まり、1230年には身廊と西のファサードが完成した。以降の工事においても、建
築家たちはこれを手がけた最初の工匠(名前は伝わっていない)の計画をよく理解し、一貫性と計画の簡素さ、および空間の統一
性に寄与する翼廊の欠如は保持されていた。
1313年にはひびがはいっていた南の塔に支柱を入れる形で補強工事が行われたが、鐘を取り付けることはそのもろさのために出
来なかった。1324年5月13日の聖別式の時にも未完成だった北の塔は、15世紀末にはようやく完成したが、1506年に早々と崩壊し
た。すぐに、ルネサンス様式を取り入れつつゴシック様式のファサードとの調和も意識する形で再建が行われた。この塔はかつて
「バターの塔」とも呼ばれた。一部には信徒たちから集められた資金が使われており、それと引き換えに四旬節の断食が免除され
たためである。
ユグノー戦争序盤の1562年にはブールジュがプロテスタントの手に落ちたため、大聖堂の彫刻が大いに傷つけられた。」
ウィキペディアより
側面からの全景。
正面は改修中。
ノートルダム寺院と同じように梁で支える構造。
ステンドグラスの数の多さに圧倒される。
ノートルダム寺院の薔薇窓にあたる大ステンドグラス。
この奥が内陣。本日はロープが張ってあり入れない。シャガールのステンドグラスもあるらしいので残念。
上部にはぐるりと大きなステンドグラスが取り付けられています。
採光部が多い為か、内部は比較的明るい。パリのノートルダム寺院の暗い荘厳さとは対照的。
サン・テティエンヌ大聖堂からロワールの古城、シュノンソー城に向かいます。
昼食はレタスのサラダと鶏腿肉のローストポテトフライ添えでした。デザートはアイスクリーム。
シュノンソーに到着。
先ずはフランス国鉄の線路を渡ってロワールワインの試飲に。
日本の方のやっているお店らしい。有限何とかの社名がありました。頼むと日本に発送してくれるお店。ドイツのライン川でもありま
した。JTBさんの御用達ですね。
まったくの田舎町。
シュノンソー城
「フランスのアンドル・エ・ロワール県、ロワール渓谷内のシュノンソーにある城。シェール川の古い製粉所跡に建てられており、文
献上に始めて登場したのは11世紀のことである。
最初に建てられた邸宅は、1411年に持ち主のジャン・マルクが扇動罪に問われて、国王軍により火をかけられた。彼は1430年代
に、その場所に城と水車を再建した。その後、彼の多額の負債を返済するため、相続者のピエール・マルクは1513年、シャルル8
世侍従のトマ・ボイエに城を売却した。ボイエは城をいったん壊し、1515年から1521年にかけて新しい邸宅を建設した。仕事を時折
見回ったのは彼の妻のカトリーヌ・ブリコネーで、彼女はフランソワ1世を含むフランスの貴人を2度城に招待した。
ディアーヌの庭 カトリーヌの庭結局城は、国庫への債務のためボイエの息子によってフランソワ1世に献上された。フランソワ1世が
1547年に死ぬと、アンリ2世は城を愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエに贈った。
ディアーヌ・ド・ポワチエは城と川沿いの眺めを非常に愛した。彼女はアーチ型の橋を建設し、城を向こう岸と結んだ。庭園に花や
野菜、果樹なども植えさせた。川岸に沿っているため氾濫に備えるため石のテラスで補強され、4つの三角形が配置された洗練さ
れた庭が作られた。ディアーヌは城主ではあったが所有権は王にあったため、長年の法的策略の結果、1555年、ようやく城は彼女
の資産となった。しかしアンリ2世が1559年に死ぬと、彼の気の強い妻で摂政のカトリーヌ・ド・メディシスはディアーヌを城から追い
出した。
城はすでに王室の資産ではなかったので、カトリーヌもシュノンソー城を召し上げて終わりというわけにはいかず、ショーモン城と無
理やり交換させたのであった。カトリーヌ王妃はシュノンソー城に自分の庭を付け加え、お気に入りの滞在場所とした。
フランス摂政として、カトリーヌは城と夜のパーティーにかなりの金額を使った。1560年にフランスで初めての花火が打ち上げられ
たのは、カトリーヌの息子フランソワ2世の戴冠祝賀行事でのことだった。グランド・ギャラリーは1577年、川全体を横切るように既
存の橋に合わせて増設された。
カトリーヌが1589年に死ぬと、城はアンリ3世の妻でカトリーヌにとっては義理の娘になるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンが相
続する。シュノンソー城でルイーズは夫の暗殺を知り、うつ状態に陥った。彼女は残された日々喪服を着用し、しゃれこうべを刺繍
した黒っぽいタペストリーに囲まれて、あてもなくふらふらと城の広い通路をさまよった。
1624年にはアンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレがシュノンソーを居城とした。その後ルイーズの相続人ヴァンドーム公セザール・
ド・ブルボンとその妻ヴァンドーム公爵夫人フランソワーズ・ド・ロレーヌの資産となり、ヴァロア朝の遺産として代々引き継がれて
100年以上が経過する。
1720年になるとブルボン公ルイ・アンリがシュノンソー城を買い取る。彼は少しずつ城の調度を売却した。すばらしい彫像の多くが
ヴェルサイユ宮殿に納められた。地所そのものはクロード・デュパンという大地主に売却された。
ディアーヌのアーチ橋クロードの妻ルイーズ・デュパン(資産家サミュエル・ベルナールの娘で、ジョルジュ・サンドの祖母)は、啓蒙
運動指導者のヴォルテール、モンテスキュー、ブッフォン、ベルナール・フォントネル、ピエール・ド・マリヴォーやジャン=ジャック・ル
ソーを招待して城を生き返らせた。
彼女はフランス革命の折も、革命軍の破壊行為から城を守った。川を渡るための橋は近隣にはなく、シュノンソー城は商業にも旅
行にも必須の場所だったからである。ルイーズはフランス革命期、村民を喜ばせるためシュノンソーの綴りを「Chenonceaux」から
「Chenonceau」に変えたと言われている。王政のシンボルと共和政とを区別するために、城の名前から最後の「x」をはずしたので
ある。公的文書はこの説を支持していないが、城の綴りは「Chenonceau」が定着している。
1864年、パリ中のガス灯を設置して財産を築いたダニエル・ウィルソンというスコットランド人が、娘のために城を購入した。カトリー
ヌ王妃の伝統に従って手の込んだパーティーに彼女は財産を使い、その結果城は差し押さえられて1891年、キューバの大富豪ホ
セ・エミリオ・テリーに売却された。ホセは1896年に城を同族のフランシスコ・テリーに売り、1913年、チョコレート業者のムニエ一族
が城を購入、現在も所有している。
第一次世界大戦の間、ギャラリーは病棟として使用された。第二次世界大戦時にはシェール川をはさんで、川岸のナチス占領区
側からヴィシーの「自由」区側へと脱出する手段ともなった。
1951年、ムニエ一族は城の修復をベルナール・ヴォワザンに委託した。彼は1940年にシェール川が氾濫して損壊した建物や庭を
修復し、以前の美しい姿を取り戻した。
後期ゴシックと初期ルネサンスが混ざり合ったシュノンソーの城と庭は、一般に公開されている。シュノンソーはヴェルサイユ宮殿に
次いで、フランスで2番目に観光客の多い城である。」 ウィキペディアより
ロワール川の支流シェール川に建てられた小さなお城。
衛兵室
「もともとこの部屋は王の近衛衛兵が使っていた。ここには16世紀のオーク材のドアがあり、守護聖人聖カタリナと聖トマスの像の
下には、シュノンソー城を建設したトマ・ボイエとカトリーヌ・ブリコネー夫婦の座右の銘「S'il vient a point, me sowiendra(城を造れ
ば私は歴史に残る)」という句が刻まれている。
16世紀の暖炉はトマ・ボイエの紋章で装飾されている。壁に並ぶ16世紀フランドル派のタペストリーは城の生活を描いており、結婚
と狩りの場面に人気がある。
チェスト(整理ダンス)にはゴシック様式のものとルネサンス様式のものがある。16世紀には銀器や陶磁器、タペストリーなどが納め
られて、宮廷が宮殿から宮殿へと移動するときに使われた。
横梁がむき出しの天井には、カトリーヌ王妃の「C」を2つ組み合わせた装飾がある。床には16世紀のマジョルカ焼きタイルが残って
いる。」 ウィキペディアより
礼拝堂
「衛兵の部屋から礼拝堂に行くドアの上には、聖母マリアの像がある。オーク材のドアはそれぞれキリストと聖トマスを表し、ヨハネ
による福音書の言葉「Lay your finger here(指をここに置きなさい)」「You are my Lord and my God(我が主、我が神)」が表現され
ている。
近代作製(1954年)のステンドグラスの窓がマックス・イングランドによって造られているが、これはオリジナルの窓が1944年の爆破
で破壊されたためである。右手廊下の聖母子は、カッラーラの大理石でミノ・ダ・フィエソールが作製した。
身廊を見下ろす位置にあるロイヤル・ギャラリーは、王妃がミサに出席した場所であり、1521年の記録がある。
祭壇の右手には美しく彫刻された祭器卓があり、ボイエの銘で飾られている。左壁にはメアリー女王のスコットランド衛兵が残した
銘が残されている。入り口から右手に、1543年付けで「人の怒りは神の裁きをせず」、1546年付けでは「悪徳に身を任せるな」とあ
る。壁には宗教を主題とした絵がある。イル・サッソフェッラートによる「青いベールの聖母」、アロンゾ・カーノによる「フェルディナン
ドとイザベルの前で説教するジーザス」、ムリリョによる「パドゥヴァの聖アントニオ」、ジューヴェネによる「聖母の被昇天」である。
礼拝堂はフランス革命時にも、木の店にしようという当時の城主デュパン夫人の考えから救われた。」 ウィキペディアより
フランス革命の折も、革命軍の破壊行為を免れただけに保存状態が良い。
スペイン、セビリアのカテドラルで「サンアントニオの礼拝」を見ましたが、この礼拝堂のムリーリョの絵は小さいです。
ムリーリョの「バドヴァの聖アントニウス」」
ジュヴネ「聖母被昇天」
ミノ・ダ・フィエソーレ「聖母マリアと幼子キリスト」
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋
「フランス王アンリ2世からシュノンソー城を与えられた愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエが使っていたのが、この部屋である。1559年、ア
ンリ2世が馬上試合の一騎打ちで自分のスコットランド衛兵隊長ガブリエル・モンゴメリに殺されると、残された王妃カトリーヌ・ド・メ
ディシスはシュノンソーを自分に返すようディアーヌに命じ、代わりにショーモン城の城をディアーヌに与えた。
格間で飾られた天井同様、フォンテーヌブロー派のフランスの彫刻家ジャン・グジョン作製の暖炉には、アンリ2世とカトリーヌ王妃
のイニシャルが刻まれている。絡み合ったHとCは、ディアーヌのDをも形作っているように見える。
17世紀初期から始まった4柱式ベッドとアンリ2世の肘掛け椅子は、コルドバ革で覆われている。暖炉には、ソヴァージュによるカト
リーヌの肖像画(19世紀)がかけられている。
16世紀フランドル派のかなり大きなタペストリーが描写するのは「力の勝利 - 2匹のライオンが引く二輪戦車を操縦する。周囲には
旧約聖書の場面が描かれる。上のへりに沿って、ラテン語で「全身で天の恵みを受け止め、ピエタの指示にしりごみしない者」と書
かれている。 慈善の勝利 - 二輪戦車には、聖書のエピソードに囲まれ、心臓を手に持ち、太陽を指差している。ラテン語で「危機
に直面して心臓の強さを示し、死の時にあって罪と罰からの救いという報酬として受け取れる者」と書かれている。」
窓の左には、ムリリョの「聖母子」がある。暖炉の右には、18世紀イタリア派の絵画がある。「脱衣するキリスト」、リベラが師事した
リバルタによる絵である。この絵の下にはシュノンソー城に関する古記録を収めた本棚がある。そのうちの1冊がショーケースに展
示されており、トマ・ボイエとディアーヌ・ド・ポワチエの署名を見ることができる。」 ウィキペディアより
ムリーリョの「聖母子」
リバルタの「脱衣するキリスト」
ギャラリー
「ディアーヌ・ド・ポワチエの寝室からギャラリーへは、小さな通路を通る。
1576年、フィルベール・ド・ロームの設計にしたがって、カトリーヌ王妃はギャラリーをディアーヌの橋の上に建設した。長さ60m、幅
6m、採光窓18、床にはスレートと石灰岩タイルが張られ、天井は横梁が剥き出しになっている。ギャラリーはすばらしいボールルー
ム(ダンス・ホール)となった。1577年にはカトリーヌ・ド・メディシス主催で、彼女の息子アンリ3世を記念する祝宴が開かれた。 ギャ
ラリー2階の床は木組みになっている。
ギャラリー両端にはそれぞれ、非常に美しいルネサンスの暖炉がある。その片方は、シェール川の左岸に出る南ドアを装飾してい
るだけである。
壁の上のメダイヨンは18世紀に付け加えられたもので、著名な人々を表している。第一次世界大戦の間、シュノンソーの城主ガスト
ン・メニエールは、城のすべての部屋を病棟とし、その費用を提供した。第二次世界大戦では多くの人々がギャラリーの特別な位
置を利用した。城の入り口が占領区域内だったのに対し、ギャラリーの南ドアは非占領区域につながっていたのである。」
ウィキペディアより
ルイ十四世のサロン
「ルイ14世が1650年7月14日にシュノンソーを訪れたときの記録によれば、彼はずっと後になってから叔父のヴァンドーム公に、リ
ガードによる肖像を贈ったという。そのすばらしい額はルポートル作製、木製で4つの大きな材を組み合わせたものである。肖像と
同時に、オービュッソンのタペストリーで覆われた家具と、ブール風のコンソールも贈られたようである。
ルネサンスの暖炉にはサラマンダー(火とかげ)とストート(オコジョ)が刻まれ、フランソワ1世とクロード王妃を表している。天井と剥
き出しの横梁を囲むコーニスには、ボイエ家のイニシャルT、B、Kの文字が刻まれている。コンソール上部には、ルーベンスの「幼
子イエスとバプテスマのヨハネ」がある。この絵は、スペイン王にしてナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトのコレクションから1889年
に購入された。居間には18世紀フランスの美しい絵画も飾られている。
また、ミニャールによるルイ14世の銀行家サミュエル・ベルナールの大きな肖像画もある。サミュエル・ベルナールはたいへん裕福
で、その風雅さと知性をナッティエの肖像画でも賞賛されたデュパン夫人の父親でもある。デュパン夫人はジョルジュ・サンドの義祖
母に当たり、18世紀のシュノンソー城主だった。
彼女は百科全書派の友人であり、ヴォルテール、ルソー、モンテスキュー、ディドロ、ダランベール、フォントネル、そしてジャック・
アンリ・ベルナルダン・ド・サン・ピエールの世話役だった。彼女は親切で寛大な女性で、フランス革命期にもシュノンソー城を破壊
から救った。」 ウィキペディアより
ルーベンス「幼いキリストとバプテストのヨハネ」
フランソワ一世の居室
「この部屋にはたいへん美しいルネサンスの暖炉がある。マントルピースにはトマ・ボイエの辞が刻まれている。「S'il vient a point,
me souviendra (城を建設すれば建てた人間は歴史に残る)」 - ドアの上の彼の紋章にも同じ言葉が刻まれている。
家具には、15世紀フランスの祭器棚が3つと、16世紀イタリアのキャビネットがある。キャビネットには螺鈿が施され、象牙彫刻の万
年筆も美しいが、これはフランソワ2世とメアリー女王への結婚祝いであった。
壁にかかった肖像画は、狩人の扮装をしたディアーヌ・ド・ポワチエのもので、フォンテーヌブロー派の画家フランチェスコ・プリマテ
ィッチオによるものである。肖像画は1556年、シュノンソーで描かれた。その額には、エタンプ公爵夫人ディアーヌ・ド・ポワチエの紋
章がつけられている。
両サイドには、ラヴェンシュタインのミラヴェルによる絵画と、ヴァン・ダイクの自画像がある。その隣には、狩をするディアナに扮し
たガブリエル・デストレの、アンボワーズ・デュボワによる大きな肖像画がある。
窓の周りにはフランシスコ・デ・スルバランによる「アルキメデス」、17世紀ドイツ派の「二人の僧」がある。暖炉の右手には、ネスレ
出身の女性を描いたファン・ローの「三人の美神」がある。三姉妹は、ルイ14世の愛妾のシャトールー、ヴァンティミユ、マイユ
(Chateauroux, Vintimille, Mailly)である。」 ウィキペディアより
ファン・ロー「三美神」
アンブロワーズ・デュボワ狩の女神ディアナ姿のガブリエル・デストレ」
カトリーヌ・ブリソネのホール
「天井には横梁が露出している。
ドアの上にある大理石のメダイヨンは、カトリーヌ・ド・メディシスがイタリアから持ち込んだもので、ガルバ、 クラウディウス、ゲルマ
ニクス、ウィテリウス、ネロといったローマ皇帝を表している。
17世紀に特注されたタペストリー6枚組は、ヴァン・デル・ミューレンのスケッチに基づき、狩の場面を表している。」
五人の王妃の居室
「この寝室は、カトリーヌ・ド・メディシスの2人の娘と3人の義理の娘を記念して、このように名づけられた。娘とはアンリ4世の妻マル
グリット・ド・ヴァロワ、フェリペ2世の妻エリザベート・ド・ヴァロワであり、義理の娘とはフランソワ2世の妻メアリー、シャルル9世の妻
エリザベート・ドートリッシュ、アンリ3世の妻ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンである。
16世紀の格間天井は5人の王妃の紋章を表している。暖炉はルネサンス期のものである。
壁には16世紀フランダースのタペストリーのセットがかけられている。題材はトロイヤの包囲とヘレネの誘拐、コロッセオの円形劇
場の試合、ダビデ王の戴冠である。別のタペストリーはサムソンの伝説を題材としている。
家具は大きな四柱式寝台、木製多彩色の女性頭部の飾りがついたゴシックの祭器棚2つ、鋲のついた旅行用チェストである。」
ウィキペディアより
ルーベンス「東方三博士の訪問」
カトリーヌ・ド・メディシスの寝室
「この寝室には、16世紀の美しい彫刻が施された家具と、サムソンの生涯を題材にした16世紀フランダースのタペストリーのセット
がある。タペストリーの縁はことわざや寓話を象徴する動物で埋められている。例えば「エビとカキ」もしくは「技能は狡猾に勝る」の
寓話である。暖炉と床のタイルはルネサンス期のものである。
ベッドの右手には、コレッジョの「愛の教え」がある。ナショナルギャラリーにあるものはカンバス地に描かれているが、ここにあるも
のは木に描かれている。」 ウィキペディアより
ル・コレージュの「愛の教育」
セザール・ヴァンドームの居室
「この部屋はアンリ4世とガブリエル・デストレの息子ヴァンドーム公セザールを記念したもので、彼は1624年にシュノンソー城主とな
った。露出した横梁が最も美しい天井。横梁は装飾されたコーニスを支える。
ルネサンス期の暖炉には、19世紀になってトマ・ボイエの紋章が描かれた。西に向かった窓の木製枠には、17世紀の女性立像が2
つ刻まれている。
壁には17世紀ブリュッセルのタペストリー3枚のセットが飾られている。タペストリーはデメテルとペルセフォネの古代ギリシア神話を
題材としている。美しい縁はブリュッセル製の典型で、コルヌコピアから溢れ出た果実や花の花綱を表現している。この部屋の4柱
式ベッドと家具は、16世紀のものである。窓の左には、ムリーリョの「聖ヤコブの肖像」がある。」 ウィキペディアより
ルイーズ・ド・ロレーヌの居室
「夫アンリ3世が1589年8月に修道士ジャック・クレマンに暗殺されると、ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンはシュノンソー城に引
きこもり、瞑想と祈りにふけった。修道院代わりに城に住み込んだ修道女に囲まれ、王室の慣習で王への哀悼を示す白い喪服を
常に着用して「白衣の王妃」と呼ばれた。
彼女の寝室の天井は、オリジナルから改装されている。銀の涙、未亡人の綬章、荊冠、ギリシャ文字など、喪を表すもので天井は
飾られている。ギリシャ文字のラムダ(Λ)はルイーズのイニシャルであり、アンリ3世のイニシャルHとからみ合わせている。
この部屋の、悲しみに沈み信仰にすがる雰囲気を最もよく表すのが、暖炉を装飾するキリストの荊冠と16世紀に描かれた絵画であ
る。家具は16世紀のものである。」 ウィキペディアより
ホール
階段
厨房
シェール川に建てられた橋脚の最初の2つ分、巨大な基部にシュノンソーの台所がある。
食糧倉庫は、リブが交差するヴォールト2つ分の低い部屋にある。 16世紀の暖炉は、シュノンソーの城でパン焼き釜についで最も
大きい。
(左)暖炉 (右)パン焼き釜
ダイニング・ルーム……城の職員が使っている。
食肉解体処理場……獲物を吊り下げるフックと切り分け作業台がまだ残っている。
食料棚 橋……台所につながっている。1つの橋脚から次の橋脚への間に、ボートがつくデッキがある。伝承では「ディアーヌの浴
場」と言われている。
船着場
厩舎
カトリーヌの庭園
ディアーヌの庭園
迷路
横からしか見れないので迷路には見えません。
本日はツールに宿泊。夕食には初めてスープが出る。
メインディッシュは白身魚のソテー。
でかいココナッツケーキがデザート。
24日
本ツアー最大の目玉モンサンミッシェルへ。
ホテル出発時は生憎の雨。途中深い霧の中を走ります。
モンサンミッシェルの対岸サンマロの手前で早めの昼食。
この頃には雨も止み曇り空に。
名物「プラールおばさんのオムレツ」をいただく。下の写真は丸々一個。これを切り分けていただく。
メインはポークの煮込みライス添え。
ノルマンディーの街並みを抜けるといよいよモンサンミッシェル。
チーズの産地ですから牛、羊が多く放牧されています。
ノルマン種の牛はホルスタインの斑が小さいやつで下の牛は違うらしい。
薄日の射しはじめる中いよいよ近付いて来ました。
車を降りて写真撮影。写真でよく見かける通りの姿。
モンサンミッシェル
「この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが
夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ
夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、
オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、
ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。966年にはノルマンディー
公リチャード1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものであ
る。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。
百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てて
いった大砲とその弾が残っている。
18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの
紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。19世紀には陸との間に堤防を
造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。1979年にはユネスコの世
界遺産に登録された。2006.8.5現在、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町から通って運営に当たっている。
近年、堤防の影響により、島の周囲が砂洲化しつつあり、国家事業として、かつての「島」に戻すプロジェクトが進んでいる。
主要部はゴシック様式だが、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。教会堂はカロリング期の様式で、
身廊はノルマン様式(11〜12世紀)、百年戦争後の1421年に破壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式
(15世紀半ば〜16世紀初頭)として再建された。これら周囲を13世紀の重層構造の修道院建築と13〜15世紀の軍事施設が取り囲
んでいる。ゴシック・リヴァイヴァル建築の鐘楼と尖塔は1897年に完成し、その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家
エマニュエル・フレミエによって製作された。深層部からは、岩山の上に幾層にもわたり建造され続けた建築遺構も残る。」
ウィキペディアより
入り口に今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。
日本で言うと門前町かな。プラールおばさんのオムレツ屋さんやクッキーのお店。島民は22名だそうです。
プラールおばさんは名物オムレット・モンサンミッシェルの考案者でクッキーもお土産の定番にしたこの島の功労者。
参道を過ぎて細い石段を登ります。
途中にこの島の墓地が。左手前のお花が手向けられているのがプラールおばさんのお墓。
学校の校舎跡。
階段を登ると哨兵の間。
大階段をさらに登り、
ソー・ゴチエのテラスに出て、修道僧の居住区の間を進みます。
島の岩山の頂上。
貯水槽
西のテラス
1897年に完成したネオゴシック様式の尖塔と鐘楼、ミカエルの像が金色に輝く。
西のテラスからの眺め。
1000年から1010年の間に建設された修道院付属の教会
天井は板張りヴォールト。
1421年に崩壊したロマネスク様式の内陣は100年戦争後にフランボアイヤン式ゴシック・スタイルで再建されました。
ステンドグラスはシンプルな模様。
上の拡大。
列柱廊
中庭の芝生が美しい。
食堂
迎賓の間
太柱の礼拝堂
マルティヌス礼拝堂
修道僧の納骨堂
ステファヌスのチャペル
修道僧の遊歩道
サン・ミカエルの像。
内部見学を終えて外に出ると太陽がいっぱい。海の青さが眩しい。フランス北部とは思えない景観。
海辺は小春日和。
ノルマンディーとは思えない南仏のような青空。鉛色の曇り空と言ったイメージとまったく違うモンサンミッシェルの姿でした。
本当にラッキー。朝の雨がうその様。添乗員さんが1月初めのツアーは大雪でパリで足止めだったと言っていたし、後で我々の前
日にモンサンミッシェルを訪れたと言う日本の方にパリでお目にかかりましたが霧が深くて何も見えなかったそうですからよくよく運
が強いんですね。抜けるような青空にそびえるモンサンミッシェル修道院。
ノルマンディーの景色を眺めながら一路パリに。
夜8時過ぎにパリの下町アレシアのホテルに到着。
25日
バスで市内を巡ります。
ガイドは日本の方。自称ワダアキコさん。
エッフェル塔を眺め記念撮影。
エッフェル塔の下に遠く陸軍士官学校が見えます。
ルーブル美術館を見学。
モナ・リザ
ますます遠くになっていました。写真は撮れても人だかりがすごくて如何しようもありません。
ルーブル美術館の収蔵品はこちらから
お昼時にルーブル美術館を出て近くのブラッスリーに入り昼食を摂る。
生ハムと野菜の盛合わせとキッシュをいただく。生ハムは板のお皿で出てくる板料理だそうです。
昼食後チュイルリー庭園を歩いてオランジェリー美術館
今日も春を想わせる日差しの良い天気。公園の池の廻りのベンチは日向ぼっこの人で一杯。
オランジェリー美術館に入る。
2006年1月にきた時は改装中で閉館していた為、見られませんでした。今回の楽しみの一つです。
モネの睡蓮をじっくりと鑑賞。一部屋だとばかり思っていたのですが、二部屋もあるんですね。感動。
オランジェリー美術館の収蔵品はこちらから
オランジェリー美術館を出てセーヌ川沿いにルーブル美術館側を歩いてシテ島のメトロシテ駅に向かう。
ソルフェリーノ橋
ポン・デザール橋
ボン・ヌフ橋
ちょっと遠回りして、
ノートルダム寺院
パリ市庁舎の辺りを見て、メトロでホテルに帰る。
今日からは自由行動で食事も付かない。駅の近くでお惣菜とワインを買ってホテルでいただく。
26日
今日は朝から小雪混じりのお天気。初めて寒さに会う。地下鉄でオルセー美術館に向かう。
ルーブルや他の多くの美術館が定休日なので結構混んでます。チケット売り場で30分待ちとなりました。
オルセー美術館
昼は寒いので美術館の食堂でランチをいただく事に。昔の駅舎ですから食堂は立派。デパートの大食堂のような感じでしょうか。
鑑賞疲れでベンチで休んでいたら隣に日本の若い男性が座っていました。一人旅の方らしい。日本の若者は頑張っています。
オルセー美術館の収蔵品はこちらから
午後8時にホテルに戻りバスでロワシー空港に。エールフランス航空の直行便で成田に。
帰りも満席。モロッコツアーの方も同じ飛行機にご無事で何より。3座席の窓側2席は行きと同じ。今回のお隣はやはり日本の男
性。聞けば、フランス西部の街に就職の面接に行った帰りとか。お勤めが決まると良いですね。日本頑張れ、などと考えているうち
に成田に。
27日
午後7時15分、成田空港に無事到着。天気に恵まれ最高の旅でした。