2010 1月 南仏〜モンサンミッシェル〜パリの旅

その1 ニースからリヨンへ

今回は南仏からノルマンディーまでフランスを縦断するツアーに参加。大目玉はモンサンミッシェルです。

出発前ヨーロッパは大雪。BSニュースに一喜一憂の毎日。傘の他にビニール合羽まで用意、カイロを山ほど持っての旅支度。

さて勇躍出発。

20日

1月20日エールフランス275便で成田を出発。満席で3座席の窓側と中の席になりました。通路側の席は幸いな事に日本の方。

齢70を過ぎてなおお元気。世界をお一人で旅されているとか。今回はツアーに駆け込み参加で半額だそうです。モロッコに行かれ

るそうで本当にお元気。パリロワシー空港でお別れ頑張って行ってらっしゃい。

パリから乗り継ぎでコートダジュール空港に向かう。またまた満席。席も同じシチュエーション。通路側の席は今度はフランスの方。

なにやら文庫本を取り出し読み始めました。本の栞が鎌倉の大仏様。話しかけてみると、1月に鎌倉、大阪、六本木など廻って来

たとの事。リヨンにお住まいだとかで「パリは大きすぎる、リヨンは良いところです、是非リヨンに行きなさい」と勧められました。

程なく眼下に街の灯かりと黒々と拡がる地中海が見えてきました。コートダジュール空港に着陸。カンヌのホテルに宿泊。

カンヌの街はイルミネーションが綺麗。

 

21日

今日からパリまではクリスチャンさんが運転する大型バスにツアー仲間 9人と向かいます。朝ニース観光に出発。

正しくは今日から一名合流して9人です。最後のお一人は一人で旅する女性の方。ミラノから列車でやってきました。パリで我々と

別れて更に旅を続けるとか。兼高かおるさんみたいとどなたかが言ってました。

再びコートダジュール空港を通ってニースの街に。空港の駐機場には小型の飛行機が一杯。セレブの皆さんは自家用機でやって

来るんだそうで、羨ましい限り。

プロムナード・デ・サングレ

高級リゾート地ニースの海岸。プロムナード・デ・サングレと呼ばれる海岸通り。街路樹は椰子の木。南国の風情。

 

 

海と空の青が素晴らしいニースの海岸。

まるで絵具を溶かし込んだような青さの地中海コートダジュール海岸に感動。

ニースの裁判所。二階の窓に映る空の青が素晴らしい。

 

マルシェ

マルシェを見学。ニースの朝市です。お花や野菜のお店が並んでいます。

左は切花のお店。右は花束のお店。

左は八百屋さん。右は果物屋さん。

左は魚屋さん。右はオリーブ製品のお店。

ニース産のオリーブは小粒です。持って帰れないのに買っちゃいました。パリまで食べ続ける事に。

市場の廻りの常設店舗は店構えも立派。

下は鶏肉屋さん。ローストチキンが美味しそう。

下はチーズの専門店。右の写真のショウケース角にある丸い箱に入ったチーズが今一番人気の品。チーズは持って帰れるんだけ

ど先が長いので生ものだからまだ早すぎるかなと諦める。なんと種類の多い事。

市場の後は高級住宅の建ち並ぶシミエ地区に。

住宅の銅の扉が立派。

ホテルや分譲マンションが建ち並ぶ。

ニースの街を見おろす公園。

 

 

 

シャガール美術館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンサート用の小ホール。

シャガールのステンドグラスが使われている。グランドピアノの装飾も彼のデザイン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お昼時となりました。昼食はBARで、ニース風サラダ、タラのクリーム煮とグリーンピースのリゾットの盛合わせなどをいただきアル

ルに向かいます。

市街からはちょっと離れた場所にある

ゴッホの跳ね橋

ゴッホの描いた跳ね橋は洪水で流されてしまいこれは再建されたものだそうです。

 

 

アルル市内に入り

古代劇場 

古代劇場 (Théâtre Antique ; ID164-002) は、紀元前1世紀に作られた劇場跡。中世には採石場とされた後に要塞に転用された

が、19世紀に現在の形に復元された。

ゴッホもこの辺りを描いているそうです。

ゴッホの記念碑。

古代劇場内部。

この二本の円柱はローマ時代の物。

古代劇場外壁。

 

博物館らしい。

アルル市街地の中心部へ。

市庁舎

市庁舎一階のホール。

 

市庁舎前のレピュブリック広場。

街の悪餓鬼が自転車で走り回って観光客にちょっかい掛けていました。なんとなく治安が悪そう。

サン・トロフィーム教会

「ロマネスク様式の教会堂。教会そのものもさることながら、美しい彫刻が刻まれた柱の並ぶ回廊も高く評価されており、「アルルの

ローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」の一つとして世界遺産に登録されている。

もともとはこの教会の敷地に存在していたのは、聖ステファノ(サン=テチエンヌ)に献堂されたバシリカ式教会堂であった。

11世紀から、当時アリスカンに眠っていた聖トロフィムス(3世紀のアルルの聖人)の聖遺物(遺体)を、この教会に安置しなおそうと

いう動きが持ち上がり、ロマネスク様式の現在の教会堂の原型が形成された。そして、1152年に聖トロフィムスの聖遺物が移され

ると、彼にちなんで「サン=トロフィーム大聖堂」となった。

15世紀にはゴシック様式の内陣が加えられた。

かつてこの教会は大聖堂(司教座聖堂)であったが、1801年に小教区教会に格下げされた。

入り口のティンパヌムには、最後の審判をイメージした彫刻がある。そこでは、イエスが中心に配され、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネ

らが黙示録の四つの獣に対応させられる形で描かれている。

またその周囲の壁面などにも、十二使徒、受胎告知、ステファノの石打ち等の聖書にゆかりのある諸情景、および諸聖人が刻まれ

ている。

回廊の柱も様々な美しい彫刻に彩られている。ここには、イエスの生涯などのほか、地元プロヴァンスにゆかりのある聖トロフィム

スや怪物タラスクなども描かれている」 ウィキペディアによる

入口の最上部にイエスが配されている。

 

 

教会内部

 

 

 

 

土人形

ローマ円形競技場

アルルの円形闘技場 (Les Arènes ; ID164-001) は、古代ローマ時代のアンフィテアトルムの一つで、1世紀末頃に建造された。当

時は3層構造で2万人を収容できたとされるが、現存するのは2層のみで、最上層は失われている。それでも、アルルに現存する古

代ローマ遺跡の中では最大のものである。現在では闘牛や各種イベントに使われている。

 

 

コンスタンティヌスの公衆浴場

コンスタンティヌスの公衆浴場 (Thermes de Constantin ; ID164-004) は、コンスタンティヌス1世の治世下で建造された公衆浴場。

現存する遺構はカルダリウム(湯の部屋)、テピダリウム(ぬるま湯の部屋)、サウナ室のみである。

 

 

 

町を流れるローヌ河。冬の川風が冷たい。

 

ゴッホが耳を切った時に入っていた病院。左手が男子病棟、右手が女子病棟、コーナーの所に教会。

ゴッホの絵。

 

 

 

 

 

 

「Cafe La Nuit」

ゴッホの描いた絵で有名なお店。彼の感性で黄色く描かれていたので、黄色く塗っちゃったのだそうで、元々は廻りの建物のように

石の色だったらしい。

ローマ時代からある古道。

 

アルル郊外のホテルに宿泊。

夕食はニース風サラダに牛肉の煮込ライス添え。ニースのサラダは細切り野菜が特徴のようです。

飲み物のメニューが楽しいレストランでした。翻訳ソフトで直訳の訳の分からない日本語のオンパレード、笑えます。

努力は認めてあげないとね。

 

22日

ホテルを出てアビニヨンへ。

バスの中で日の出。風力発電用風車の間から朝陽が昇ります。

ポン・デュガール

「フランス南部・ガール県のガルドン川に架かる水道橋である。ユゼスからニームへ水を運ぶための水路の途中にあり、古代ロー

マ時代・紀元前19年頃にアウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令で架けられたと考えられている。

三層構造の石造アーチ橋で高さ49メートル、長さは275メートルである。最下層6アーチ、中層11アーチ、最上層35アーチとなってお

り、最上層にモルタルを用いた導水管が設置されている。最下層は1747年に拡張され道路になっている。上層になるほどアーチは

小さくなり、安定感のある外観となっている。水路の全長は50km近くあるが、高低差は17メートルしかない。これは1kmあたり34cm

の勾配で、ローマ帝国の土木技術が非常に高水準であったことが伺える。同様のローマ時代の水道橋はスペインのセゴビア、トル

コのイスタンブルにも見られる。」 ウィキペディアによる

この水道橋は大きい、高い。一層目の上は広い通路となっていて、景観が眺められる。下を川が流れている。ローマ水道橋の最高

傑作ですね。

全景

水面に映る橋を眺められる。

 

 

 

 

 

 

サン・べネゼ橋

「アビニヨンのローヌ川に架かっていた石造アーチ橋である。一般にはアビニヨンの橋として知られている。

この橋はアビニヨンの城壁の外側にあり、ローヌ川に架かっている。建設されたのは1177年から1185年にかけてである。22連のア

ーチ橋であり長さは920m、幅は4mあった。

1226年、ルイ8世がアヴィニョンに攻めてきたときに橋の4分の3が破壊されてしまった。数年後、禁止されていたにもかかわらずア

ビニヨンの人たちは橋を再建し始めた。以前の橋は下のサン・ベネゼ礼拝堂と呼ばれるチャペルしか残っていない。なぜなら次の

橋の橋床はかさ上げされその上にサン・ニコラ礼拝堂が建てられたからである。

17世紀の初めにアビニヨンは橋の維持と修理ができなくなった。1603年、ローヌ川の洪水でアーチの一つが崩壊した。続いて1605

年に3つのアーチが崩壊した。1628年に橋の修理が始まったがペストの流行があり作業は中断され、1633年まで橋を渡ることはで

きなかった。2か月後、2つの新しいアーチがローヌ川に流された。この頃になると別の方法で川を渡るようになっていた。人々はフ

ランス王国側のフィリップ端麗王(フィリップ4世)塔を出発し船で川の中央にあるバルテラセ島まで渡り、階段でサン・ベネゼ橋に登

りアビニヨンに渡ったのである。

橋は今にも崩壊しそうなので、聖ベネゼの聖遺物は1674年にサン・ニコラ礼拝堂からセレスティン修道院に移された。何度かの移

転と1791年の冒涜の結果横領品が数点アビニヨンのノートルダム大聖堂に残されているのみである。そして橋の有名な4つのア

ーチとフィリップ端麗王塔、世界中に知られた「アビニヨンの橋の上で踊ろうよ」という歌が残されている。」 ウィキペディアより

対岸から。

 

新しい橋の真上に太陽が輝きます。

城壁側から。

 

 

城壁

城壁の辺りには残雪が見られます。温かいこの地方ではまれに見る大雪だったそうです。

城壁内側のアビニヨン市街地。

 

動かないからくり時計。

オペラ劇場

フランス銀行

建物がだまし絵で飾られている。

銀行の壁面にもだまし絵。

 

造幣局。銀行の隣でお金を造っていたらしい。

 

 

法王庁

「アビニヨンはプロヴァンス公領、次いでトゥールーズ伯領となった。中世末のカタリ派運動のなかではカタリ派を支持。アビニヨン十

字軍で1226年ルイ8世によって占領され、武装解除された。カタリ派を支持した街への処罰として、市の城壁は破壊された。

キリスト教が入ったのは早く、70年に司教座が置かれた。1309年にクレメンス5世がアビニヨンを居城に定め、1377年までローマ

法王庁所在地とした。1426年に大司教座がおかれた。1303年にアビニヨン大学が開かれ、フランス革命まで続き、法学で知られ

た。アビニヨン捕囚時代の半ば、1348年に領主プロヴァンス女公ジョアンナから法王クレメンス6世に市が売却された。以後、フラン

ス革命で没収されるまで、法王領となった。何人かの対立法王はアビニヨンに教皇座をおいている。」 ウィキペディアによる

 

 

 

入口門

広場

現在、野外コンサートの会場として使はれたりしているそうです。

財務大臣の間。

床下金庫。

増築の経緯を表す模型。

 

 

 

 

床タイルの断片。

 

 

 

芝生の中庭。

 

食堂

奥の中央に暖炉。左の人が立っている場所の後ろの入口が食器の倉庫。

暖炉の煙突を下から見る。

 

木の天井。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

法王庁からアビニヨンの街を眺める。

 

 

 

 

法王が民衆の前に出られる窓。

 

 

昼食は野菜サラダ、ピザ、タラのクリーム煮いんげんポテト添え。

ブドウ畑

リヨン、フルビエールの丘

リヨンの街を眺める。

 

 

ノートルダム大聖堂

新しい教会で豪華絢爛。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リヨン郊外のカラフルなホテルに宿泊。

夕食はハムと生野菜のサラダ、ポークにキノコとパスタ添え。

食の都なのに泊まるだけ。残念です。